「ガドルフの百合」 について
ガドルフは普通の旅人ではなく、放浪する男。
少年や若者と固定観念をふりはらい、読み考えてみれば、
彼は大人であり終わりのない、終わりが見えない旅する男である。
人生の旅路に遭遇する嵐であり百合の花であり、
試練であり恋である。
解決が見えないただのがんばりである。挫けるな、
負けるなと心に叫びつづける歩みそのものである。
叫びはリズム、雷鳴は警告、稲光りは驚きであり超絶的な運命の出会いである。
百合は白く、雷の稲妻と闘いついには勝つ、
力は美しい姿を立たせて暗闇から星を輝かせる。
放浪する男は自我の反映として百合に惹かれ、その気持ちを恋というが、
彼の胸の中に育てた愛の嵐に出会った白い輝きとの再会でもある。
挫ける我が身の弱い心が見つけた勇気の姿である。
嵐が去り男は果てしない目的が不明な地に向かって歩を進める。
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私は生きている限り作りつづけるでしょう。
ダンスの創作を始めてから40年近くになる今も、作品を作りたい気持ちは全く変わりません。
新作を作ることが生きることと一体なのです。他の生き方には興味がないのです。
呼吸をすることと同じです。痒いところをかくのと同じです。同じ気分です、
ただ作りたいから作る。それをつづけている。なぜなら生きているから。それだけのことです。
興味があることをもっと知りたいと思う時、作品を作ります。
「何」に興味があり、「どの様に」は次です。テーマや内容に深く入っていき、その中で生きたい。
作品は生きる場所です。内容の内側に入り込み、そこで生きる。作品を生きる。作品を生かす。
もちろん私のやり方でですが、自分の個性を表すためではない。
自分を表すために踊らないし、自分の表現のために作品は作りません。内容のために作るのです。
私は作品を多く作る方だと思います。特に今年は。
しかし今年はたくさん作品を作ると決めていたのではなく、数を重ねているというだけで、
結果として多くの作品を作っていました。
作品を作ることは楽しいです。作品作りの全てが楽しい。
毎回作る過程では、常に困難にさらされていますが、それほど面白いことはありません。
すぐできることなど面白くない、というか簡単に作った作品など一つもありません。
すべてが難しい仕事でした。それにあえて難しい課題を選ぶというのもあります。
逆を言えば、簡単な作品作りはないということです。簡単なテーマも技術もありません。
表現する喜びという言葉を私は使いません。作ることが嬉しくて楽しいのです。
そして作品を作ることとそれを踊ることは全く違うことです。
私は作品を作ることの方が、自分が踊ることよりも面白いです。
踊ることは好きですが、きっといつまでも踊るでしょう。
その先を言えば、踊ることによって作品ができて行くということが面白いのです。
作りたい作品は、、違う言い方をすると作られたい作品の要素たちは、
まるで順番待ちの様に長い列を作って待っています。
何もないところから何かが湧いて出てくる、そんな感覚になることがありますが、
実際は、何もないというより、まだ明確になっていない何か、予感や兆しの様に、
視覚にも物質的にも定かではない何かを微かに感じる時、すでに私は創作の準備に入っています。
一秒といってもいいくらいの瞬間に、ほんの小さな気にかかることがあるとします。
気にかけなければ忘れてしまう微かな何かが起きる様な気がするとします。
そして後で、そのことに時間をかけて考えてみる。あれは何だったのだろうと問いかける。
すると、あれはあの本の中にあったあの情景だったのだとか、忘れていた何かもしれない、
何とも言えない感覚が身に迫ってくるのは、あの音楽のあの部分だったのだ、など、
ミステリーを探り始める。その探るプロセスが楽しいのです。
音楽や書物、絵画や哲学思想、あらゆることの興味の対象を広げて探検が始まります。
深く茂ってまとまりのつかない鬱蒼としたジャングルや
宇宙の真っ只中の虚無や虚空の中と外を巡り巡って、手探りで宝物を探利当てる様な静かであるが、
興奮とスリリングな際どさを体験します、
創作期間が短い時でも必ず同じ冒険と探検を辿ります。
ギリギリまで「わかる、わからない」や「気づく。気づかない」「見える、見えない」
「聴こえる聴こえない」、そして「作れる、作れない」の境を探します。
抽象的ですが、作品を作ることはその様なことです。
創作はあらゆることを感じて考えることです。忘れることもそこには含まれます。
だから尚更、私は作品を作るのが楽しいのだと思います。
そして、ひと一言、作品を作るためには、自由を求める精神こそが基盤です。
「自由」というより、自由を求める、「求める」意思こそが、喜びに直結しているのですから。
勅使川原三郎
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「アダージョ」 について
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ドビュッシーのピアノ曲で構成する新作のダンスです。
夢、月の光などよく聴かれる曲からあまり馴染みの
無い曲まで、ドビュッシーの音楽にひそむ謎を探る
60分の旅といえるでしょう。
ドビュッシーには独特の音と音の間合いがあるよう
ですが、それは分断した間ではなく、
重複する多層の皮膜のような
音楽と私は感じます。
ズレやヒネリによって延長される時間を
謎そのものとして受け取ります。
たとえば聴こえないはずの「音と音」とが重層して、
消えゆく音と現れる音が「一様ではないすれ違い」を
音楽化しています。
作曲家にはただならぬ神秘性を感じざるを得ません。
自然現象か、いや超自然の神秘、
つまり秘密が闇の中ではなく、
秘密の光と契約している如き音楽が沸き上がるのです。
アパラタスの地下2階の森に潜んで生息する私たちは、
秘密の冒険に出るところです。みなさんもどうぞご一緒に。
勅使川原三郎
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カラス アパラタスが、2013年7月にオープンして丸8年が過ぎまし
た。だからなんだということなのですが、急ぎ足で歩んでいるつもりで、
全力で走っていたつもりでも1日1週1ヶ月1年は、実にゆっくりとしか
進みません。あっという間の8年とはいかなかったと言えます。いわゆ
る夢の中の超スローモーションの全力疾走でした。しかしその体感は、
大充実の日々だったことを意味します。公演数や創作の数は、たくさん
たくさんやりましたね、そう、もう数えるのがめんどくさいというわけ
です。
ところで、アパラタスの地下2階から地上に出てみると、ここ数年、
世界が奇妙な形に歪んで、特に近頃は歪み方がひどく、明言を避ける
ゆえの歪みが加速しているようです。どこへ向かい何を目指すか、ど
こを見て何を語らい、何をする、何を結論とするか、現存する人間が
問われている。
お前だ!つまり私は問われています!
もしお前がつまり私が人間ならどうする!
生き物ならどうする!
この問いから逃げてはなるまい。
命に問い、命が答える。
自分の身震いに甘えるな、心を動かせ、身体を動かせ!
問いに問いつづけ、答えに答えつづけよ!問いと答えの動力を信じて
どこへでもいいから行っちまえ!行きたいところに行くがいい!無人の
アパラタスに、シャウトが怒号が響きます。
9年目はすでにのろのろと歩き出した。これからどんどんと足音を立て
て前進し、音も無く地の果てに行こうではありませんか!
勅使川原三郎
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──静かな語り口と無邪気なロバ
『プラテーロと私』の初演は2015年ですが、原作について知ったのは、40年以上前のことです。ギタリストの友人から紹介されました。
その時はダンス作品を作ろうとは思っていませんでした。なぜなら、内容がとても無邪気で、あまりに自然でしたから。というのは、若い時はもっと刺激的な内容で音楽もハードな音質のものを作りたかったからです。
しかし作品化する前にも、海外公演のツアーの際には、必ずといってよいほど携帯していて、タフな公演の束の間にパラパラと読むことで気が休まった。そしてある時、そろそろ作品にしようかなと思いついたのです。それはアパラタスで公演をするようになったのが理由だと思います。小さな舞台でこそ生きる作品があるものだと思えたのです。
そして数々の創作を経た後に、ロバに語りかける内容をよく聞いて(読んで)いると、私が以前とは異なったことを感じるようになっているのに気づいたのです。──人間のことが細かく描かれている。特に弱い人々が生きている姿を描いているが、無垢なロバに語りかける筆者の「私」が、見ている目の前の生きるものを、主体的に、そのあるがままを記録したように描いた。簡素なデッサンのように。
読み手に伝わるのはなんだろうと思った。筆者の手つきそのままの静かな語り口、それをプラテーロが聞いている、つまり読者である我々も聞き見ている。読者である我々はプラテーロのように無邪気にならざるを得ない。
最近、特に近頃の私は、このバカなほどの無邪気に、難しさと尊さを感じます。ヒメネスがこの本を書き出版したのは、1914〜17年の頃で、第一次世界大戦とほぼ重なる時期であり、その後の世界恐慌からスペイン内戦〜第二次世界大戦と戦争の途切れることがない時代でした。現在のように世界中が奇妙な圧力によってコントロールされている時代は、私に1900年代初頭と2000年台初頭が重なるように思われる。別種の兵器(戦略)による世界規模の大戦が既に勃発しているようでなりません。
勅使川原三郎
*写真はアップデイトダンスNo.26「プラテーロと私3」より
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新作「静かな息」について 勅使川原三郎
息は「いき」と読み、「生きる」という意味もある。
身体機能や運動的意味を多分に含む「呼吸」ではなく「息」に注目しました。普通の状態、日常的な行為、動作と息が調和する静かな時や場、そこに生きる姿、静かな命がある。棲息、生息は住んでいる事で、休息はゆったり休む事、安息は心身を安らかにする事、、生きるには闘いや乗り越えるという厳しさが伴うものですが。
「静かな」には動きがないことも表し、動きが少なくなってゆく事を思わせます。生きる姿や生きる場や動きを共にして緩やかに軽やかであろうとする気持ちがふくまれ、終息への過程で聴く「静かな息」を大切にしたいと思いました。「死への」ではない「おさまり」への過程に私たちは生きているのだと感じました。
作品の核になるもの
舞台で実際に息をする音は作品の重要な要素で、微かにする日常的な息はこの作品の核になります。
その微妙な息の音(ね)は広大無辺の宇宙と最小限の交信をするのかもしれません。
メッセージ
長い年月にわたって私は「はかないもの」や「弱々しいもの」への共感とともに創作してきましたが、いま新たに思うのは「生命体」も「現象」も初めはほんの小さな微かな始まりではなかったかということです。
そして一度始まった命や事はいつまでもつづこうとする力が働く(逆のエントロピーについては別の機会に)、できうる限りつづけようとする意思、宇宙的意思と言いたいほど鮮明だが見果てぬ気持ち、
「はかないもの」がどこまでも行こうとする「不可能性」にこそ生きる価値があると私は考えます。
そして、今後は二度と公演の中止を自らはしないと肝に命じました。
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皆様へ
時期が少し遅くなってしまいましたが、簡単に挨拶します。
この度は公的機関の通達に従いまして、
次回のアップデイトダンス#83公演を中止します。上演実行
に代わる意味を見出したことによる決定です。より良い準備、
いままで手をつけられなかった事を勉強する期間にあて、
常に挑戦的に創作する意思はより強くなっています。
世間の風潮との距離を保ち、正確に自らの羅針盤によって向かう
べき方向は決められるのです。
私たちはすでに次作品に向けて準備を開始しています。
どうぞお身体とお気持ちを大事に、再開そして再会をたのしみに
していてください。
勅使川原三郎
2021/05/01
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密閉された本の頁を開く
暗闇だった紙面が明るくなり目が言葉に触れる
声が言葉を飲み込む
落ちるように本の中に吸い込まれる女
無時間の文字空間に身体を失い浮遊
動揺や謎をまとい 理解と無理解に遊ぶ
言葉と音調の密着と分離の繰り返し
読書を止めると沈黙に身体は掴まれ
現実に放りされる
静寂に押しつぶされるが 再び本に戻る
言葉の響きと透明の動きを重ね合わせて
自在に時間を伸縮変形させる
真空を呼吸しダンスする者
勅使川原三郎