昨日は「白痴」4日目でした。今日は5日目最終日です。
4回の公演を終えて、この作品が確かな質をもっていると
感じています。ダンス作品という枠にとどまらず、
身体と照明と音楽が一体となって創作された表現と言えます。
原作のドストエフスキーの物語が空間表現として新たな生命を
得たと言えば、確かに無理があるかもしれません。しかし、
全体の構成をした私は丁寧に、ある意味で原作に忠実に表された
創作であると言ってよいのではないかと考えています。
ドストエフスキー原作からの変容です。
当然、日本人である私の表現が日本人の観客に見られたことは、
ロシア人には何も関係を持たないことかもしれませんが、
無意味だとは言えないのではないでしょうか。
国、民族、文化、原語、時代、表現方法、場所、、など
様々な違いの上に、この私が創作した「白痴」は
今立ち上がったと言いたいのです。
今、誕生した新たな「白痴」が将来、ヨーロッパで上演され、
それからロシアでも上演されるのを、私は強く願っています。 2016/12/18 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.666より]
昨日はシアターX(カイ)にて「白痴」公演の初日で、
計5回公演が開けました。初演は荻窪の我が劇場アパラタスでしたが、
構成を中盤以降変えました。ナスターシャの死を悼む場面に重点をおき、
配役として登場しないロゴージンを想起するような工夫も加え、
文学的ではない手法で、原作に向かいました。
作者の徹底した人間描写に感銘した私ですが、自分独自の身体理解を
基礎にした手法によって感情が揺れる人物の内的力を
浮き立たせようとしました。
葛藤という、実人生で常に身にまとい背負っている重力は、
体内に沈殿し静まりかえって息を潜めている。
作品を通して支配する静けさは、人間の生の音響であり、
音楽と言い得るのではないでしょうか。
まるで深海の底から無数の細かい泡のように自らを浮力にして
光の方向に上昇するように。あるいは冬の凍てついた大地から
湧き上がる湯気か遠方の一筋の煙のように。
改作では初演と真逆の終わり方にしました。ムイシュキンと入れ替わり
ナスターシャが、死から蘇るごとく踊り、静かな身体/死体として
たたずみます。ムイシュキンはその静かな身体を弔います。
純粋な生の真偽を問うのではなく、身体そのものがもつ不可避の
聖なるものに、私は近づきたいと考えたのでした。それは信仰よりも
澄んだ空気に内包されているものではないかと考えました。
また新たな日を生きる今日、それは新たなダンスが生まれる日です。 2016/12/15 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.662より]
両国のシアターXにおきまして、14日水曜日、
明日からドストエフスキー原作の「白痴」の初日が開けます。
前日の今日は舞台仕込みの日で、照明を作りました。
装置が一切ない舞台上では照明が重要性は重要ですが、特に
この作品にとっての明るさの変化は登場人物の内面と対称し、
あるいは対照し拮抗するような視覚を構成します。
いや視覚にとどまらず空気の厚さ薄さを変化させ、世界を歪ませ
る環境にも成りえます。それが、どのようなことかはご覧いただ
いて感じていただけると思います。音楽構成も丁寧に用意しました。
しかし身体がなにより力をもつことは決して変わりません。
言葉の翻訳、いや内容説明のようなダンス、動作利用や置き換え
をするものではありません。文学的なダンスを表わすことも私の
本意ではありません。文学の力は言葉から創りだされるのでしょう。
人間、人間の、言葉の力はあくまで人間を必要としていて、異国
異時代に作られた読ませる力は、果たして後年、現代に私のような
誤解者は、言語内容以上に身体的理解あるいは身体的想像力を喚起
させられて、1つのダンス作品を作りたいと願うようになったのです。
これは私にとっては事件ですが、語った作家にとっては全く無縁の
煙でしかないわけであります。しかしこの胸の中心から湧き上がる
煙は、本人にとりましては実に確かな匂いがする煙なのです。
火の無い所に煙は立たない?
だからここが熱いのだろうか?
2016/12/13 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.660より]
アップデートダンス #41「AND」は、3回の公演を終えて
今日は休演日です。
「そして、、」「、、と」ふたつ或はいくつかのものを並列に表し、
結びつける役割の接続詞といっていいのでしょうが、
行き着く到達地のない、つまり結末の前にある、
いや結末すらない経過の途中にある橋、渡り廊下、半透明の
セロテープや糊のような「AND」。
しかしダンス作品としての「AND」は、強烈な音響音楽や急展開の
逆転などに彩られて時間が失われ、空間性が希薄になり、
存在価値を失っていくかのように変質するサトーリホコの身体が、
砕かれ引き裂かれては再生しつづける生命体の本質に則ったダンスが
展開する。こじつけになるとは思いますが、2016年ノーベル生理学、
医学賞を受賞した大隅良典氏が研究された「オートファジー」の研究を
思いだしました。細胞自体が持っている破壊された細胞の再生機能、
そして生命の恒常性の維持に関与している細胞の役割と
個体発生の過程とを私なりの身勝手な接近でサトーリホコの身体から
推論すれば、まさに私たちKARASのダンスが向かっている方向は、
生命科学と異なる方向ではないと私は考えます。
これを読む方の中には、無理のある理屈の展開だと
思われる方がいるかもしれませんが、私は事実の積み重ねとしての
ダンスの稽古や創作過程において、身体-運動-研究と生命科学研究は
異分野だとは考えられないので、以上のような話をこのダンス作品
「AND」と結びつけたのです。
公演後のトークでサトーリホコは、自分こそがこの「AND」
という接続詞であるのではないと話していました。
作品は実際に舞台で踊って初めて生命を得て、それが様々な過程を経て、
生命つまりダンスそれ自体を息づかせることになるのだろうと
私たちは考えています。
ここに、また新たなダンスの誕生を祝いたいと思います。
これからの4回目以降の公演にどうぞご参加ください。
2016/12/6 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.653より]
photo by Akihito Abe
昨日アルプス山脈の麓にある湖畔の街アネシーでの勅使川原三郎特集が
(ドローイング展と3D映像展が館内の別の空間)でオープンしました。
そこを訪れた人々は、夜8時半から始まるダンス公演にも
足を運んでくれるというわけです。この企画はまさに私自身の縮図の
ようなものでとてもうれしく楽しいものです。回顧展ではなく
力みすぎない軽い感じの良い雰囲気です。
「青い目の男」の公演はシアターXで初演した
ブルーノ・シュルツ原作の短編をダンス化したものですが、全体構成は
音楽以外に原作から抜粋された佐東利穂子の朗読が基調をなしています。
全てを日本語のままにしてフランス語対訳のコピーを渡して
見てもらいました。どれだけの人がそれを開演前に読んだかは
定かではありません。しかし言葉の重要性に身体の動きの表現が
作品の内容になり、観客の皆さんは音楽と動きつづける強烈なダンスの
冒頭から引きつけられて、集中して作品の中に入ってきてくれたようです。
それこそダンスです。もちろん原作から引用された内容であるのですから、
シュルツにより導かれた私の意思が構成したダンスの展開が、
言葉からの芸術的持続力を得た作品であることは確かであります。
言語と身体を対比して考えることに私は反対します。
言語というものは身体運動から切りはなし得ぬものであるのですから。
ですから、日本語を終始聴きつづけていた観客が、
そこに日本語が持っている身体性を感じていることも確かでしょう。
それこそがダンスとしての言葉であると、私はすこし際どい表現を
させていただきたいと思うのです。
体内に響く言葉が何語であるかをあらわにした作品という価値を
新たに認識できた公演でもあったのです。これはうれしい「出会い」
であり、それ以上に「考え」を新たにせずにはいられない課題を
見つけたようです。
「青い目の男」の公演は良い出来栄でありました。
自負できる事実であります。
そして、この作品を初演する機会を与えてくださったシアターX
および芸術監督の上田美佐子さんに感謝します。
失礼して言葉をつづけさせていただきます、
上田さんからは真の勇気の大切さを教えていただいています。
厄介な人間という生き物が、行動しつづけ表現という押しつけが
様々な形をとって向かってくる日々に、逃げずにむしろ「そいつら」
に正面から向かう気力を絶やしてはならないと自戒しますが、
いや、「そいつら」こそ「てめえ」ではないかと頬をひっぱたく日々
でもあります。劇場、芸術の最大の敵は、単純に「きどりだ」と
私は頬の後に足を踏んづけている次第です。 2016/11/17 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.631より]
久しぶりのメールマガジンです。長い間のご無沙汰でした。
私たちは現在ヨーロッパツアー中で、初めがイタリア、北部トリノ
(フットボールのユベントスで有名)のフェスティバルで
「Bones In Pages」公演しました。何百という本とおびただしい数の靴、
分解されたテーブルや椅子そして生きたカラスが一羽で構成された
インスタレーションの中でダンスする作品です。
9月に東京芸術劇場で公演した「up」では美しい黒馬が出演しましたが、
そのかなり以前の作品「Raj Packet」では巨大な牛ホルスタインが2頭、
両親ヤギと生後5日の子ヤギの家族、20匹の白ウサギ、
10匹のアヒルが登場しました。「Bones In Pages」のカラスも
公演する当地で調達したとても良い格好の美しいカラスでした。
ダンスは激しさと緩やかさが交錯するインスタレーションと身体とが
一体となるダイナミックな展開で、時間がイメージから独立した作品です。
その次はスペインのアンダルシア地方のセビージャ
(フットボール日本代表の清武選手が所属)に移動しました。
公演作品は8人のダンサーのグループ作品「鏡と音楽」です。
招待してくれたディレクターとは1989年以来の付き合いで、
過去に5作品を上演してきました。そして今回の「鏡と音楽」も
以前同様にとても素晴らしい観客からの支持を受けました。
どういうものかというと通常の盛大な拍手やブラボーなどのかけ声から
じょじょに観客が自然に3拍子のリズムを刻む拍手に変わっていき、
それが劇場全体を覆い響き反響して素晴らしい音楽に変化していきました。
まさにフラメンコの土地ならではのリズム感で、
自然発生的にリズムが起こりそのリズムが微妙に変化していく様は
鳥肌が立つほどでした。以前もこのような3拍子のアプローズを
もらいましたが、ディレクター曰く、一年に2回しか起こらない観衆の
反応だそうです。ダンスは特に佐東利穂子の上質な踊りは
ますます磨きがかかり輝くような音楽を生み出す全身が伸びやかにしなり、
妥協のない制御が超高速から繊細な静止へと移行し異次元の舞踊的身体の
展開を実現していました。自意識から離れる美しい姿が起こす通常の
人間性という肌合いとは異なるダンスに自在に変容する表面を示しました。
そして昨日、アルプス山脈のフランス側の湖畔の美しい街アネシーに
移動してきました。ここはすでに冬の様子です。
ここでは勅使川原三郎特集プログラムが行われます。ドローイング展、
6面に構成された3D映像作品展、
ダンス作品公演「青い目の男」(シアターX初演)、
ダンス作品「鏡と音楽」、などの4つのプログラムで構成されています。
全体を同時に、あるいは交互に発表できる内容は充実していて
とても楽しみです。
ドローイングや3D映像、大小のダンス作品上演、
こういう表現ができるのは、アパラタスの成果ではないだろうかと
私たちは考えています。アパラタスの小さな劇場での充実したダンスや
そのステージを自由に使ったドローイング展示 空中に吊った、大小の
サイズの異なる空間を自在に飛び往来する芸術、それは芸術へ向かう
精神の1つ、たわいもない試み、しかし手作業が見いだす
新たな作法、無知から技術へという知的冒険。
そんな旅をもうすこしつづけます。
私たちは今月末に帰国しまして、アップデートダンス41「AND」を
アパラタスで、「白痴」をシアターXで公演します。
また近々書きます。 2016/11/14 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.628より]
アップデイトダンスNo.40
「SHE」
アパラタスにて、アップデートダンス no. 40「SHE」 は昨日
大きな成果を成し遂げ、計8回の公演を終えました。
佐東利穂子のダンス人生の中でも特別な価値をもつ作品であります。
今後の道を築いたソロダンス作品として長い年月を経ても決して
色あせない美を創造したと言ってよいと思います。私自身、
作品を発想し構成した者として誇りを感じています。末永く
将来にも活き活きと公演されていくだろうという確信ももっています。
なぜなら、佐東利穂子が踊るからです。
彼女は、精神と身体が極度な明解さによって自らを
調和させることができる稀有な人間です。意思の力がダンスする。
技術とは固定した限界によってつくられのではなく、
限界という概念のない変質の多様性によって開発されるのです。
私が最高の芸術パートナーとして彼女を認めるのは、
技術や感覚的に優れているとか身体が美しいという表現価値に
理由の第一番があるのではありません。
自然や動物への尊厳と愛情と共に無限への恐れを大切にしている
からですが、そこに芸術という価値が関わっているわけでは
ありません。しかし、そしてもうひとつ加えるならば、
知性に基づく振る舞いは彼女特有です。日常的に彼女の立ち振る舞いは
際立って美しい。見せるためではない所作にこそ、内側が身体から
透けているような目をみはるものがあります。
ここに挙げたいくつかのことは、みな一体となり、ひとりの人間、
佐東利穂子を作っているのではないかとおもわれるのです。
ダンス作品「SHE」は彼女であります。
しかし名前を持たない「彼女」という「ひとり」、
佐東利穂子から離れた「彼女」によって現れては消えていきます。
人格と呼ばれる以前の不確かな実像を揺れ動かす身体、なんという力、
作品を構成した私は毎回の公演に驚かされました。佐東利穂子は
「彼女」を振りはらいながら激烈に身体を空気に打ちつけ切りつけ、
空気から脱するようだ。その瞬間「彼女」はほとんど真空の
ほとんど現実の詩宇宙で「彼女」自身を失う。
公演直後のトークで佐東利穂子が語った
「彼女は全てを失い自分自身も失った時、それは終わりではなく、
そこから彼女が始まるのだと思います」と。
それは佐東利穂子のことであり、私のことでもあります。
2016/10/27 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.612より]
「SHE」
7年前に初演した「SHE」が海外公演を経て、
今回のアパラタスでの再演はとてもうれしいことです。
作品は成長し、私はその成果に最高の讃美を与えることを躊躇しません。
しかし美辞麗句では済まない、収まらないものを私は強く感じています。
彼女の身体と精神、つまり神経と感情は、強烈にダンスにフォーカスされ、
その明解な意思は決して振り返えらず、
挑みみつづける。その態度がダンスになっている。
現在に生きる、それはあらゆる意味での問いかけと
言い換えられますが、彼女は恐ろしさから逃げず、
恐ろしさを求めて止みません。安易な同意や納得の反対側で
万全の準備をしている。
私が佐東利穂子のダンスを見る時、目で見る以上に
皮膚で触れるのを感じます。身体を耳や背中で、
全身で心臓で感じます。彼女のダンスがもつ力は
特別な次元にあります。彼女は強烈に実在しているということです。
今回の「SHE」の再演は、佐東利穂子という新たな次元を開いたと
私は記したいと思います。ダンスが比喩になり身体が情報になり
気持ちや心が記号処理される擬似表現の反対側で、佐東利穂子は
動き踊る。佐東利穂子がもつ独特の明解さと
生命の根源的な不確かさは、常に私たちの前に「初めての美」を
表わすのです。その時、「彼女」は私の数歩先を進んでいます。
静かな歩みで。激烈な身体が変容した後にしか起きない静けさです。
2016/10/20 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.603より]
「SHE」 佐東利穂子のダンス
SHE が初演された時、私は佐東利穂子というダンサーにな
ぞなぞを掛けていたように記憶してます。
このソロ作品が、彼女であるためには何が SHE であるのか
と。作品は佐東利穂子自身がその彼女を探そうとする成長記
であったのかもしれません。作品中、「私の性質はその本性
を失った」という言葉が出てきます。それはひとりの人間の
成長の証なのかもしれないし、人生のその時々に襲う「未知
なる対面」なのかもしれないのです。
ヨーロッパでの公演の際、何人もの観客がその冷静に展開す
るダンスに涙したのはなぜか、くっきりとした身体が動き、
止まる。その時、輪郭を失くした人間と精神との対話が初め
て起こる。その言葉を超えた対話を人々は聴いていたのでは
ないでしょうか。それこそダンスであると佐東利穂子からす
こし遊離した彼女は表したのかもしれません。
SHE の再演はこの上なく意外で不思議な気持ちを私に呼び起
こさせるのです
2016/10/14 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.597より]
東京芸術劇場での新作「up」の公演は今日が最終日です。
山下洋輔さんは私にとって長年、
40年来のあこがれのピアニストです。
公演に先立って9月に入ってからリハーサルを数回しましたが、
その度毎に最高のライヴセッションをしました。
リハーサルとは言えないハイテンション、一回限りの
最高の瞬間でした。その時に感じた高度な芸術性はとても独創的で
「厳密」と「自由奔放」が同時に起こりつづける
とても豊かな時間でした。この公演前の希有な経験はステージで
より明快に鮮やかに、より自由に煌めきます。これこそ
私いえ私たちKARASのメンバーが求めつづけていた価値です。
私のダンスキャリアはバレエから始まりましたが、
自分独自のダンスの基礎や創作を作ろうとしている時、
70年代後半の山下さんの演奏から重要なことを学びました。
その時に受けた影響は長年私の内側に動きつづけていました。
つまり精神と規律というか面白さを見つける真剣勝負は
どのようにあるのかです。
最終公演を直前にして公演内容にはふれませんが、
私がどれほどこの素敵なピアニスト(いや本当は、現代日本、
同時代に生きている最高の芸術家と言いたいのですが)に
影響を受けたかをご覧になるでしょう。
軽やかな紳士の幾千の指や腕から発生する音楽は、
人をしあわせにすると私は思いました。芸術がなんの為に必要なのか、
という問いは愚かしいでしょうか?人間に芸術は必要なのです。
空気のように、風のように、光のように、影のように、
動物や植物の自然のように、食べ物のように、人間同士のように、
芸術は自然界には属しませんね、
芸術は人間が人間の為につくるものです。
そして自然そのもののように、音には意味はない、
しかし音楽が時としてもつ無意味な美しい力は、
人間に喜びを与えると私は感じるのです。
そこに新たな生きる為の意味が生み出される、保証の無い、
なんて素敵なスリルでしょうか。私は山下さんの奏でる音楽から
しなやかで自由な人間と自然の絡み合う動く姿を見ます。
彼はピアノという楽器が異なる物体に変容するような音を奏でる、
その音楽性に楽器を超えた、音階を超越した
音楽を聴くことができます。いや私と佐東利穂子は毎日ステージ上で
全身を開いて受け取って踊っています。
2人だけではなくサドルという名前の黒馬も
山下さんの演奏に魅せられている仲間です。
2016/10/9 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.591より]
久しぶりに書きます。
今、私は名古屋に滞在しています。オペラ「魔笛」上演のためです。
歌手への演出、衣装のデザイン、舞台装置や照明デザインも
手がけていて、毎日てんてこ舞い。しかし全ては順調に進んでいて
演出の方はすでに出来上がり、あとは東京で稽古をしていた
東京バレエ団のダンサーたちと歌手たちが舞台上での稽古をして
全ての構成が整います。
今日から劇場仕込みの初日。今後ステージリハーサルをして、
衣装、装置、照明と出演者全員が揃うピアノリハーサルになります。
その時、初めて勅使川原演出の「魔笛」の全貌が表れる時です。
佐東利穂子はオペラの初めから終わりまでとても重要な存在です。
場面ごと随時登場してナレーションを語り、
多くの場面でダンスします。その縦横無尽の登場は、
演出構成としてリズムを与える役割でとても重要な存在です。
語りはいつものKARAS作品の時と同じように的確で魅力的です。
ですから、より“KARAS的なオペラ”と言ってよいでしょう。
また、報告します。
アップデートダンス#39「米とりんご」の公演には
どうぞご来場ください。私と佐東利穂子はこちらの公演のために、
立ち会えないので失礼しますが、見てくださるとうれしいです。
2016/9/8 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.557より]
今日は、アップデートダンス#38
「牧神の午後」の最終日です。
初日から昨日までの一週間は短く感じられました。
7回の公演には、それぞれの振動があり実に豊かな経験でした。
ドビュッシーの音楽は聴けば聴くほど魅力的で面白く、
言いかえれば、踊りを紡ぐようにふたつの身体は音楽によって
無色多彩に編まれました。
律動する動きと衝動から生まれる動きの重なり合い。
発生と消滅を多層化した縦糸と横糸に激しく消滅しつづける
曲線糸を加えた涌き上がるうねり。湿気を帯びた匂いの広がり。
この「時」に彩色をマラルメとドビュッシーに依頼した私たちは
踊ったというより、ダンスを生きたと言ってよいのではないか
と思います。ダンスをダンスしたと。
どうか言葉遊びをしていると受け取らないでいただきたい。
踊ればダンスだではなく、ダンスをしっかりと踊りたいのです。
ダンスが単に作品の為にあるのではなく、
生を精一杯に生きたいということです。
この作品が生まれたのは、その為であったのだと、
今私たちは考えています。
2016/8/18 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.531より]
レマン湖を見下ろす、森の中にひっそりと建つ巨大な
木造建築のコンサートホール「グランジ オ ラック」
内部全てが木の地肌のままで美しい
今、私はフランスのエヴィアンという
レマン湖畔の避暑地に来ています。
毎夏開かれている音楽祭に参加するためです。
クラシック音楽のフェスティバルで、私と佐東利穂子、そして
友人の2人のダンサー(キアラとヤンという、この数年に創作した
私の振付グループ作品で踊った、とても優秀)4人が踊ります。
ダリウス ミヨー作曲の「世界の創造」とモーリス ラヴェル作曲の
「クープランの墓」の2つのオーケストラ曲で、
私の勝手な言い方ですが、とても20世紀的なモダニズムと
バロックとが交錯するような曲構成で、
普段はあまり私には馴染みのない音楽なので、
興味深く面白くリハーサルをしています。
公演が行われる劇場「グランジ オ ラック」は、
建物全体が全て木造で巨大な美しい山小屋のようなホールで、その
質素であり大規模で大胆なホールデザインに、私は驚かされました。
音楽文化の伝統と言っては簡単な表現になりますが、
ステージ真上高くに吊られた
3本のメタルのトラス(照明を吊るパイプ)と天井の反響板以外は
全てが木で作られている建物の内部と外部から湧き上がる雰囲気が、
音楽という時代を超える柔らかい芸術を大切にしようとする精神を
表しているようです。運営しているスタッフは
皆せいぜい30歳代の若者で、全体が柔軟性に富んだ楽しさが
溢れています。音楽が好きだという率直な人々で、
記録映像を撮るスタッフも私の創作を見ていて、
とても積極的に仕事をしています。
彼が言うには、エクサン プロヴァンス オペラフェスティバル
世界初演の「エイシスとガラテア」(ヘンリー パーセル作曲)は
いままで見たオペラの中でも最も好きなほど強く印象的だったと言い、
それ以前にも「鏡と音楽」をパリで見ていて、私の芸術に理解があり、
今回の撮影に対しても様々な工夫をすでに考えているようでした。
こういう対応や反応は、日本の現状には
無くなってしまったのでしょうか。以前はテレビで言えばNHKの
撮影スタッフには、とても熱心な方々がいて、
ディレクターから技術までベテランも若手も皆さん情熱的で
芸術を愛する素敵な人たちで、楽しく仕事をさせてもらいましたが、
最近は方針が変わったようで冷ややかなようです。
話が随分横道にそれましたが、こちらに来て、
なぜか日本の現状を顧みる時を過ごしてもいます。
地理的に離れてみると時間的にも離れて思い起こすこともあるのだと、
今、私は実感とともに残念な気持ちでもあります。
若い世代に、より良い試みの機会を与える
本当に成長した大人がいなければならない。
しかし日本には成長していない子供のような中年世代が、
仕事をきちんとしているのかと疑問を持たざるを得ません。
いままで何を思考し、次世代に何を伝えて来たのか、
自問自答しているのか、私はそんなことをつい考えてしまいます。
それに反して東京、荻窪のカラス アパラタスでの
最高に充実した日々もついこの前ですが、素晴らしい公演、
日に日に増えていく観客の方々、集中した公演中の雰囲気、
公演後に直接お会いする観客の方々の笑顔、そして考える顔、
なんと素晴らしい本当の時間でしょうか、
用意されて作られた表情ではない、その時の率直な表情、
おべっかや気取りのない出会い、これがアパラタスの良さだと
私は思います。荻窪、アパラタスにある活き活きした質素な力を
私たちは誇りに思います。
フランス、エヴィアンにて。
2016/7/5 勅使川原三郎
佐東利穂子
[メールマガジンNo.476より]
昨日の「白痴」最終日で全8回の公演を終えました。
私と佐東利穂子をはじめメンバー一同は、
過ぎた充実した日々に向けて胸をはり、そして
ありがたい感謝の気持ちで姿勢を低くするしだいです。日頃の
皆様のご支援ご来場が あってのことだと肝にめいじています。
ここに簡単ではありますが、お礼申し上げます。
カラス アパラタスは開場以来まる3年になろうとしています。
かさねまして感謝申し上げます。
そして次回のアップデートダンスno.37「夜」から始まる
4年目から活動にどうぞご期待くださいまして、
いままでと変わらないお付き合いをお願いいたします。
お身体に気をつけて、間近な蒸し暑い長~い夏が
素晴らしい日々となりますように。
2016/6/30 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.467より]
「白痴」の公演は初日に私のソロではじまり、
2日目、3日目が佐東利穂子とのデュエットになりました。
偉大な長編小説を1時間のダンス作品することが
無謀であるという自覚はあったのですが、
公演初日からなんと楽しく豊かな仕事をしているのだろうと
我ながら驚いています。
以前、 公演を観た様々な方から、おふたりにしか実現できない作品
ですね、と言われることが度々ありましたが、
本作は正に私たちならではのダンス作品であると実感しています。
時間をかけた蓄積が破裂するような生き生きしたダンスであり、
内面に問いかけつづける、叫びささやく身体が全体を構成する、
文学ではなく身体が語る「白痴」であると私は思います。
また新たに、そして改めて表現、表明とはなにかを考えさせられ、
勇気づけられています。
本日もデュエットです。
2016/6/24 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.455より]
アップデートダンス #35「トリスタンとイゾルデ」公演は
6日目を終え、あとは今日と明日となりました。
私はワーグナーの偉大な音楽に導かれ我を忘れて、
このダンス作品を準備し構成し、そして踊りました、佐東利穂子と共に。
今や佐東利穂子の高度な技術と明解で強力な存在表現は
世界中見ても他に類のないダンスそのものといってよいと思います。
私のメソッドから誕生した佐東利穂子という「ダンス」は、
「トリスタンとイゾルデ」によってより大きな成長をつづけています。
オペラからいままで存在しなかったダンスが変容するように
日々生まれかわっています。
私自身も当然日々新たに生まれるようにして生き踊っています。
このエネルギーは事物や気持ち、精神を常に率直に感じ取り、
絶え間ない自問自答から逃げず、不条理や不可能性を友にあります。
そして自分から離れた我として呼吸する身体を踊らせる時、
新しいも古いもない、これしかないダンスが生まれるのです。
私たちは、そのようにダンスを語ることができます。
目の前にある「時刻」に我の全てを投げだす覚悟、
それは私たちの「ダンスの時」であり「トリスタンとイゾルデ」が、
与えてくれる貴重な「生」であります。「死」が透けて見えるような、
真水のような「時」といってよいかもしれません。
2016/6/15 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.445より]
昨日は、アップデートダンス #35「トリスタンとイゾルデ」の
初日でした。ワーグナー作曲の本来のオペラ上演は
4時間におよぶ大作ですが、私たちはダンスとして1時間にまとめました。
圧倒的で壮大音楽、そして驚異的な歌唱に魅せられてはいますが、
原作にある不可能な愛、死、人間への郷愁という禁句の刻印を
全身に焼き付けられた感覚を否定できません。
「愛の死」に身も心も奪われて引きこまれてしまう悲劇的陶酔感であり、
無限循環という死と生の理想をダンスにしたいと強く願ってもいました。
つまり私にとりまして、死と生の無限循環こそダンスの理想なのです。
その実現の機会をありがたく感じた今日の初演初日でありました。
今作でも佐東利穂子が格別のダンスをしています。どうぞご来場ください。
2016/6/9 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.436より]
本日から佐東利穂子が出演します。
アップデートダンス「春と修羅」の再開、金曜日までのあと4回公演です。
内面的宇宙観が広がる謎と言ってもいいと思われる精神、
物質界で激しく葛藤する身体、遠方と密着、、、
それらすべては呼吸と共にあり、空気の実在こそ
生きる基礎である人間と生物、死と生、つまり生のぎりぎりに切羽詰まった
表情の死をも見つめる精神の切り取りではないか。私は巨大な詩世界の
ほんの一部分にしか触れることができないかもしれません。
人間の身体のどこをとっても人間であるように、
ほんの小さな部分でも賢治であることに変わりはないはずです。
私ができることは、詩の解釈表現ではなく、
詩の中に飛び込んで呼吸するような体験的な創作です。
2016-5-31 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.426より]
宮沢賢治という詩人であり作家は、私たちにとってとても大きな存在です。
その数多くの作の中でも詩編「春と修羅」には
特別の力がこもっているように思われます。この広大無辺な宇宙観、
ひとつのものを微細と巨大の視界に焦点を合わせることができる
希有な詩人であると私は考えます。
その偉大な詩をもとにしたダンスによって接近を試み、
作品にすることは大きな冒険でありました。
公演は初日から昨日までの3日間を私のソロにしました。
私は巨大な詩世界のほんの一部分にしか
触れることができないかもしれませんが、それしか私にはできません。
しかし人間の身体のどこをとっても人間であるように、
ほんの小さな接触でも賢治であることには変わりはないはずです。
私ができることは、詩の解釈の表現ではなく、
詩の中に飛び込んで呼吸するような体験的な創作でした。
今日の公演も私のソロになります。
週明けの後半では佐東利穂子や鰐川枝里が登場することになります。
2016-5-29 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.423より]
「春と修羅 宮沢賢治の詩世界」
~空気を喰う 宇宙を呼吸する~
私が宮沢賢治から受けた影響は小さくなく少なくありません。
これまで私は賢治世界のさまざまなものを
吸い込み吐き出してきたようです。
言葉やイメージは勿論、自然や時空について考える
新たな機会をつくってくれました。
「春と修羅」という大変なテーマをあげてしまった今、
私は身ぶるいがする思いです。
しかし賢治の詩から勇気も学んだ身としては、気弱な身ぶるいを
空気が含む振動と共に無数の多重振動をダンスに
変換作業をする時期ではないかと私は考えました。
賢治の詩の言葉が物理学的であるせいで夢にはならないでしょうが、
妄想や幻覚と時に激しく摩擦し交錯する楽しさや恐さ、
苦しみや解放を経験するのだろうと予測しています。
2016-5-10 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.404より]
新作「シナモン」と再演「静か」は、両国のシアターXで
合計8回公演を無事終えました。
私たちは、とても有意義な舞台経験をしたと実感しています。
長年、創作と公演をつづけてきましたが、
今回の2作品は特別な意味があるように思います。
荻窪のアパラタスでつづけているアップデートダンスシリーズは33
を数えますが、あれらの連続公演を活動基盤にしたことによって、
一言では言えない様々なことを学びつづけています。
言い尽くせないことでも言葉にしようとすること、
日々の積み重ねというような当たり前が当たり前として
特別であること、つづけること、
結果のないものへの好奇心、等々。
「シナモン」と「静か」は、私たちが踊った数多くの重要な作品群から
育まれた栄養素が成長した期間限定の集大成と言ってもよいと思います。
技術的にもとても重要な発見がありました。
私の創作は考えることから生まれますが、そこには常に身体があります。
また来るべきものを予兆することが、私にとって準備運動として不可欠で、
それには最大級の好意的力量(ポジティヴ エネルギー)が必要です。
重力と浮力、操り操られながら 永遠の真ん中で移動しつづける
不可思議な領域へ全力で突入する そこではあらゆるものを呼吸する
なんでも吸い込み吐き出す 物でも人でも自然も時間も匂いも夢や懐疑も
終りも始まりのない身体から身体へ
ここからここへ 手から手へ 無から無へ
どこに終りがあるのかまだわからない
今回はご支援、ご来場ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
勅使川原三郎 2016・5・6
[メールマガジンNo.399より]
「静か」3日目へ
昨日は2日目の公演でした。
私たちのダンスは、その時その場で感じ取る最善の身体的選択
が動きになり、連なりを成し、その微細に連なる制御がダンス
を生み出します。喩えや形式の反復ではないダイナミズムが、
随時起こるようにするのです。明解で強い決意によって。
「静か」はまさにそのダンス法が純粋に構成されることによって
成り立っています。
近頃、以前よりも明らかに感じることがあります。
無音とは実に豊かな空間を湧き上がらせるという実感です。
そして多く方々から耳にし、私たち自身も感じていることですが、
音楽がその空間にあるように、身体の動きによって生み出される
無音の音楽です。緊張感を遥かに超えた沈黙の自由な広がりが、
舞台いや劇場を拡張させ、時間感覚を異なる質に変え、
伸び伸びした世界を体現するようです。
初日同様に昨日も、観客とつくりだした沈黙が
劇場内にある種の解放感を漂わせました。軽やかに。
本日3日目、新たな沈黙に向かいます。よろしくお願いします。
2016.5.4 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.396より]
「静か」初日を終えて
今年2月に荻窪のアパラタスで初演した作品は、劇場が
変わり新たな生を得ました。
この早い再演の理由は、構成要素(無音)がもつ独特の力と
極度に緻密な進行による異次元の質感と時間の提示です。
作品の根底にある保証のない際どさは、私の創作精神そのも
のですが、決してはずしてはならない厳密さがなくては不可
能で、成し遂げるための「持続力」と恐れない「勇気」がなけ
れば実現できない仕事です。
佐東利穂子の内側の動くダイナミズムは凄いものです。普段
使わない言葉で表さねばならないほどですが、
「勇気」と「持続力」、そして、それらをダンスにする技術。
私自身にも求めつづけてきた、これらのことが佐東利穂子に
備わっているとあらためて感じる公演でした。
ダンス、私たちダンサーにとって、究極の際どさに常に身を
置きたいと願っていますが、その実行は簡単ではありません。
また、この公演ではいままでにない異質の開放感も体験しま
した。劇場全体が伸縮する呼吸しているようでした。新鮮。
観客の皆さんと共有した沈黙は作品の要素として貴重でした。
ありがとうございました。
今日は2日目、楽しみです。
2016.5.3 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.395より]
「シナモン」から「静か」へ
昨日は「シナモン」の最終日でした。4回公演というのは少ないと感じ、
まだまだ終らない「シナモン」を踊りたいと思いました。
ひとつの作品が終わり、そして間もなく今日の夜には「静か」がはじまります。
私たちは常にこのような異なる世界を行き来して生きています。
まるで空気を吸い、そして吐く、その終りのない入れ替わり、呼吸こそ私たち生きるものの定めで、毎日ひとは新たな生を生きていて、どこまでも辿り着くところがないような永遠の時の一部分を歩んでいるかのようです。常に永遠の真ん中にいて身体を動かし、もっと動かそうと、動けないと嘆き、やり過ぎたと嘆く、
大騒ぎをして喜び、静けさを喜ぶ、
いつも何かと何かの間にいて、そこから離れようともし、戻りたいとも願う、終りのない間の間をゆく、時々予期せぬ風が吹く。
作品は「静か」へと移り変わります。
2016.5.2 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.393より]
photo by シアターX / 三村正次
今日は「シナモン」の3日目です。
この作品には、主に「私」が語る言葉によって導かれていますが、
その「私」は言葉を発する声であり、人物として明解に人格を有し
ているのでもありません。「私」が感じる様々な情景が匂いと共に
舞台を満たしています。時に濃密に重く、時に薄く軽く、状況や
情景が闇の中から滑らかに現れ出て、人間存在以上に動物や植物、
木々や店々、生き物かどうかもさだかでない揺れ動き消えていく物、
匂い香る、そういう非物質、空気や影、光と音、それらの変容こそ、
この公演作品の主なるもの。そのことはダンスをつくり踊る私たちに
とって、親密に受け取れることです。言葉が消える時に現れるもの
こそ心に、そして身体に浸透します。動きも動きが去った後、身体に
じわっと感じる自己自身が在ります。この自己自身ということには、
人格や関係性を超えた私という意味です。
そこには考える自由があります。
いつでもいつまでも考えていいのです。
言い切れないから考える、考えるから不明瞭さえも不安定さえも大
事に機能するを知る。理屈ではなく実質です。不安定が最高のバラ
ンスを生み、永続の方法と私は考えていますし事実です。考えること
が運動を生み出し、事物や生命を動かす。観念では動きません。
ですから私にはダンスが面白いのです。終りがない動き、いつの間
にか始まっている生きること、誰とも言えなくなる身体、身体と失った
感覚のみの生命、それらが私のダンスです。シュルツへの共感を
探っていくと自己自身で出くわしたのです。
芸術は美術でも哲学でもなく、もっと面白いものだと私は考えます。
2016.4.30 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.389より]
昨日は「シナモン」の初日でした。今日、2日目。
ブルーノ・シュルツの言葉世界、物事や現象の裏側に
潜む不可思議で活き活きした生命は、身体の中に深くに沁み入む。
シュルツの言葉が発動させる独特の流れは、体内の細部を巡る。
身体という自然、音楽が発する光量で仕立てられる皮膚衣装、
壁と床と天井の木製の大自然、膨張と凝縮によって変形する
第2の自然である劇場シアターX。
私たちは、空気が混ざった想像力を深く呼吸して踊りました。
よかった、ん、よかった、これが初日終演後の気持ちです。
私にとって「シナモン」はシュルツ原作の創作8作目ですが、
原作への興味と想像は尽きません。
あと3回の公演に全力で向かいます。
今後もよろしくお願いします。
2016.4.29 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.388より]
アップデイトダンス33
ありがとうございます
昨日、アップデートダンス#33「もう一回」の
8回目の公演が無事終了しました。
皆様なのご来場、ご支援ありがとうございました。
ソロとデュエットを織り交ぜた公演は、
力強く冒険的、そして明解でした。
今後の為にも重要な作品が誕生しました。
ダンスの創作がいかに重要な価値を持つか、
芸術がなぜダンスというものになるのか、
その答えは、公演によって表していきます。
今回のシリーズでも、ご来場いただいた方々や
新たな出会いによって勇気づけられました。
常々もっていた考えに確信を持つことができました。
活き活きと創作活動をつづけていく決意を新たに、
アパラタスは、久しぶりに地上に出て春の空を呼吸し、
感謝と共に胸が膨らんでいます。
これからもどうぞよろしくお願いします。
勅使川原三郎
佐東利穂子
2016.4.20 [メールマガジンNo.378より]
延々と繰り返すワルツ
「未知の時」に身を投げだすダンス
終わりの無い時に乗って
今日が「もう一回」の最終日です。
まさに「もう一回」踊ります。
私はこの作品の構成を考えた時には想いもつかなかったことを、
日々の公演から得ることができました。
「未知の時」に身を投げ出すダンスと書いたように、繰り返される
ワルツが生きる「未知の時」となり、
そこにダンスがあると感じました。
生きることはどこにあるのか?今ここにある、ではない「未知の時」
というものが、自分を生かしていいるかもしれないと考えました。
もしかしたら感情による直観的な理解なのかもしれませんが、この
身体が感じ取ったことは同時に瞬間瞬間に考えたことだという実感
があります。デュエットのパートナー佐東利穂子も同感しています。
これはダンスの中にしかない「時」なのかもしれません。
2016.4.19 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.377より]
「もう一回」2日目の佐東利穂子のソロは、
いままでにない彼女のダンスとの出会いでした。
止めどもない動きの流れ、留まらない内側からの放射、
それをなんと言い表せるだろうか、
ずはり、それこそダンスとしか言えません。
極自然に踊っていたのか、
いや激しい葛藤から湧き出る流れ、そして停滞、
しかし決してとどまらない冷酷な観察と狂気直前の沸騰、
それらが同時に全身隅々から放射する。
終わりのないワルツが突発事故のように消える、
だが彼女は決して終わることがない、そんなダンスを私は見ました。
2016.4.13 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.367より]
昨日からアップデートダンス33「もう一回」が始まりました。
初日は私のソロでした。
延々とつづくショスタコービッチのワルツの持続、「終らない踊り」、
私はこれがダンスの1つの基本だと考えます。ダンスの力、
踊りつづける力、終りを予期しない生命の持続、
決して他の表現にはない、ダンスにしかないいつまでもつづく力を
ぼくは大事にしたいのです。そこに音楽があるのですが、
いつの間にか聴こえていた音楽が聴こえなくなり、身体の動きのみが
純粋に活き活きと独立し始める。
その持続力はダンスそのものの魅力だとぼくは信じます。
とどめられない、押し止められない勢いに圧倒されながら、むしろそこに
終らない恐ろしささえ迫り来る、予期せぬものとの出会いが
ダンスの中にありました。なんのメッセージもない純粋なダンスの持続、
と言えると思います。私は命と向き合いながら踊っていました。
これは私の実感です。
この作品「もう一回」は、私たちにとって大切な作品になると感じています。
まだ初日を終えたばかりですが、これからの7回公演でいままでない
経験をするでしょう。それは際どく、価値の未だ定まらない仕事かも
知れません、しかし私は考えます、とても大事だと。
どうぞ、生まれたての「もう一回」をよろしくお願いします。
2016・4・12 勅使川原三郎
「TESHIGAWARA」そして創作「トランキル Tranquil」
ゲーテボルグオペラダンスカンパニーのために
帰国直後に創作過程の報告をしましたが、今日は作品について書きます。
上演全体プログラムの名前が「TESHIGAWARA」でした。自分の名前がその
日の公演名というのは、はじめは少し奇妙な感じでしたがすぐに慣れました。
新作は45分。20人弱のダンサーの中心に佐東利穂子を配し、全体を彼女
がひっぱるような構成を用意しました。私は、彼女独特の身体性に潜む感覚
と動きへの流動的な導き方をダンサーたちが学ぶべきだと考えました。
会得すべき技術として先ず必要だと考えたからです。これはとても難しい技術
で、1~2ヶ月の稽古で簡単に習得できるものではありません。しかし彼女の
身体が根源的にもっていて、明確に技術化している部分に関しては、伝えら
れるものがあるだろうと考えてリハーサルを重ねました。その閃光のような煌
めく(きらめく)身体が発する動きを間近に見て体験することが、
若いダンサーたちに軽やかで重要な贈り物であることを願って
佐東利穂子には常に全力で踊るように求めました。
彼女は初日と2回目の公演のみを踊り、その後は別のダンサーが分担し各
シーンを成立させました。今現在もゲーテボルグでは、その新たな配役で
上演されています。
「トランキル Tranquil 」は静けさという意味です。
ちょうど私たちは、アパラタスで「静か」という
無音のデュエット作品を作り、もうすぐにシアターX で再演しますが、
この「トランキル」は、別なアプローチをしました。
「静けさ」がノイズ(騒音)と激しい動きの中に潜んでいて、
身体がそれを隠している。
「静けさ」とは「ざわめきの中にある延長された瞬間」ではないか
という問いから発したものでした。
不可思議なものという明確な意味をなさない身体と動きが配置され、顕微鏡を
覗くような視点を強いられた目が焦点を合わそうとしても、
合わないような光と造形と身体とノイズのズレがつづき、
突如バッハと佐東利穂子が視覚の焦点を
合致させると微動する線と化した空間がとろける、
軟体化した天空と底深い沼の床面上にドビュッシーの精霊が拡散する、
再び遮断された視覚がダンサーたちの
活き活きした爆発的な動きによって無理矢理引き裂かれる、
延々とつづくスリル、渦巻く色とりどりのダンサーの身体は、
天空を滑るように、沈みゆく薄暗がりと現れ
でる薄明との間に滑り込むように最終的な「静けさ」へ向かう、
ダンサーたち自身が動きつづけることによって、
積み重ねてできた「静けさ」、その見えない厚みや薄さを
紡ぎながら観客に向かって歩き、歩調を強くし前進するところで突然の幕。
これが「トランキル Tranquil 」です。
もちろん、これらここに並べられた言葉が正確に
ダンスを描写してはいません。
しかし、私が当日劇場で見たものは以上の出来事であったのは確かです。
私の好きな作品です。
佐東利穂子は希有な煌めくダンスをしました。
存在ぎりぎりの際に立って踊る姿が美しく、
生命のエッジに爪先があるのさえ余分と思わせるはかなさでもありました。
他に変え難い芸術そのものです。
そして参加した全てのダンサーたちの献身的な努力なくしてこの
創作は実現できませんでした。ありがとう美しいダンス。
私たちは、私たちダンサーによる言葉、言語を持たなければなりません。
彼らにその思いをリハーサル初日に話しかけましたが、
私はその思いを共有することができたと信じています。
しかし私はもっと多くのこのような機会をえて、ダンスがその言葉を、
言語をもつために力を尽くしたいと思います。
ダンスが生きるために。芸術のため。価値の
定まらぬ命はどこだ?
2016/4/6 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.358より]
3月12日にゲーテボルグ オペラ ダンスカンパニーへの創作作品
「トランキル」が世界初演しました。
休憩をはさんで2年前に初演した「メタモルフォーシス」も上演し
2作品とも、大きな成功をおさめました。
この2作品によるプログラムのタイトルが、
「TESHIGAWARA」と名付けられ、4月中旬まで
同オペラ劇場で上演されます。
新作「トランキル」は約40分の19人のダンサーが踊る作品です。
今回の創作の特徴は、佐東利穂子が出演したことです。
特別出演という形ですが、このカンパニーの一員として
彼女の秀でたダンスの力は、
作品全体を新たなダンスの価値へ導いたと私は今考えています。
アパラタスでの連続公演直後に東京を発ち、
現地のダンサーたちと濃密な稽古を重ねました。
日々の稽古経験によってダンサーたちの成長は、
作品の質を高めたと思います。彼らが真剣に学んだ私のダンスメソッドが、
実質的にダンスそのものへの挑戦であることを
再確認した一ヶ月でもありました。
毎日の稽古の後、疲れきったダンサーたちの顔の表情が
晴れやかな笑顔だったのは印象的です。
そこには充実した心身が感じた喜びが溢れ出た明るさと
言ってよい暖かみがありました。
その時、私も佐東利穂子も同様の喜びを共有していたのは当然です。
そして翌朝、私たちが再会する広々としたダンススタジオには、
創作の難しさに立ち向かうダンサーたちの重く、
すこし冷えたような足取りが集まってきます。
外は雪で、始まったばかりの一日がまだ目覚めていないと思うほどです。
しかしそういう日は始めのうちだけで、
稽古のはじめから私からなんの指示無しに活き活きと
ウォームアップを始めるのが当たり前になってきました。
それは以前から彼らに求めていることですが、
自分の身体管理はすべて自らやることが一番という、
稽古に入る前からの心構えを求めていたことでもあります。
当然なのですが、それを怠ると故障の基になるのです。
自己責任、自己管理は最低限の要求です。
以上のように書いていると創作内容にまでは、なかなか行き着きませんが、
ダンスの稽古や創作というものは、細かいことの積み重ねなのです。
丁寧に丁寧にを積み重ねて、そしてある時から大胆になる、
そして丁寧と大胆とが絡み合い形が現れる。
つまり構成が決められる段階に辿り着く。
私はそのように作品に近づきます。
そういうプロセスの話をダンサーたちには、毎日話しました。例えば、
新作を作る為には、私たちは来るべき作品の為の言葉、
あるいは言語を持たなければならないと私は話します。
ランゲイジ、共通言語、共有する価値観を作る為の言葉使い、
それは話し言葉や書き言葉に限定されるものではなく、身体的な言葉使い、
1つの単語がなにを意味するかを分かち合えるかどうかが
とても重要なのです。話しているつもり、聞いているつもり、
理解しているつもり、、ではだめです。
つもりなど入り込む余地があってはいけないのです。
つまり身体が実感していることが共有、
共感できるレベルまで身体感覚を高めなければ、
新作創作の為に新たな身体言語を持ちましょうなどと言っても、
なんのことやら全く理解できるわけがありません。
しかし私が求めるダンスというものは、
そのような経過を経験することによって随時獲得した感覚を
再度いや何度でも試みることを可能にすると、私は考えます。
言葉で随時に起きる身体の動きを表現することできること、
実感を新たな経験として生きることなのです。以上の書き方は、
読者の方々に受け取っていただけるか難しいところですが、
実際にこのように稽古を進めました。
ですから、公演の成果について述べるのは、
稽古のプロセスからはかなり遠くに離れていることのようでもあるので、
あまり心地の良いことではないのです。
しかし実際に素晴らしい成果であったことは本当なので、冒頭に書きました。
今日はこのくらいにして終りにします。
次は作品内容に関わることを書きたいと思っています。
2016/3/14 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.336より]
photo by Saburo Teshigawara/photo by Aya Sakaguchi
「静か」無音のダンス は、昨日最終公演を終えました。
年明け1月のアップデートダンス公演は、
3作品で合計20を数えました。
全ての公演が終了した今、思い起こせば、とても充実した日々で、
多くのことを学ぶことができ、
今後の活動に必ず役に立つ貴重な経験でした。
ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。
間もなく私と佐東利穂子は、スウェーデンのイエテボリへ出発し、
イエテボリオペラ ダンスへの新作「トランキル」の創作に入ります。
2年前に初演した「メタモルフォーシス」と共に上演する、
まさに勅使川原三郎プログラムになります。
その間、アパラタスでは、アップデイトダンスNo.32として
鰐川枝里の初ソロダンス「米とりんご」を公演します。
教育プロジェクトから純粋に私のメソッドで鍛えた彼女の身体感覚が、
今、ひとつの扉を開けるときが来ました。
私や佐東利穂子とも異なる独特の質感とエネルギー制御は、
新鮮なダンスを発生させるでしょう。
すくなくとも濃密な1時間になることは間違いありません。
皆様のご来場をお待ちしております。
2016/2/5 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.298より]
「静か」無音のダンス は昨日5回目の公演を終えました。
初日2日目と佐東利穂子から私へとソロがつづいた後のデュエットは
とても有意義な公演になりました。
各ソロとは異なった、
より内容豊かなダンスが生まれたと言ってもいいと思います。
終始無音という空間が、二つの身体(その内と外)から現れでるようです。
それはいままでにない時間感覚を引き出すダンスと言えるでしょう。
基調となる無音は、観客の方々と共につくりだすのだと気づきました。
これは公演の日々から得た実感で、
新たに生まれる無音空間のつくり手として観客の力。
これはとても面白い発見です。
昨日月曜日から「静か」の後半が始まりました。
ぜひ、ご来場いただき一緒に無音をつくり、
生きた「静か」にご参加ください。
2016/2/2 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.293より]
「静か」無音のダンス は一昨日3回目の公演を終えました。
初日2日目と佐東利穂子から私へとソロがつづいた後のデュエットは
とても有意義な公演になりました。
各ソロとは異なった、
より内容豊かなダンスが生まれたと言ってもいいと思います。
終始無音という空間が、二つの身体(その内と外)から現れでるようです。
それはいままでにない時間感覚を引き出すダンスと言えるでしょう。
基調となる無音は、観客の方々と共につくりだすのだと気づきました。
これは公演の日々から得た実感で、
新たに生まれる無音空間のつくり手として観客の力。
これはとても面白い発見です。
本日月曜日から「静か」の後半がはじまります。
ぜひ、ご来場いただき一緒に無音をつくり、
生きた「静か」にご参加ください。
2016/2/1 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.294より]
「静か」無音のダンス は昨日3回目の公演を終えました。
初日2日目と佐東利穂子から私へとソロがつづいた後のデュエットは、
とても有意義な公演になりました。
各ソロとは異なった、
より内容豊かなダンスが生まれたと言ってもいいと思います。
終始無音という空間が、二つの身体(その内と外)から現れでるようです。
それはいままでにない時間感覚を引きだすダンスと言えるでしょう。
基調となる無音は、観客の方々と共につくりだすのだと気づきました。
これは公演の日々から得た実感で、
新たに生まれる無音空間のつくり手として観客の力。
これはとても面白い発見です。
今日は休演ですが、月曜日から「静か」の後半がはじまります。
ぜひ、ご来場いただき一緒に無音をつくり、
生きた「静か」にご参加ください。
2016/1/31 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.293より]
「青い目の男」公演は3日目を終えましたが、初日から日々の積み重ね
によって、作品はより明快になり、テキストと音楽と身体がつくる内容
が活き活きしてうねりのような運動が起きています。「夢想の中の夢
想」というテーマはただの夢の話ではなく、逆に現実化する思い、
いつまでもつづく内面と社会がもつ矛盾、それさえ抱えもつ想像の高度
な思考、その具体化です。勇気を持って現実に立ち向かい、自己自我を
超える自然の力に全身と思いの全てを委ねる、そういうことを原作「夢
の共和国」から学びました。それは正にダンスの在り方を示してもいる
と感じとりました。
今、私は考えます、困難が与える試練から逃げない力こそが、「夢の
共和国」そして「青い目の男」の中にある「詩の宣言」であると。
夢を持ちつづける勇気。
その夢を現実化する思いと技術。
2016/1/18 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.282より]
次のアップデートダンスは1月16日から始まる「青い目の男」。
ブルーノ シュルツ原作の短編「夢の共和国」から生まれたシアターXで
初演した創作です。
その内容は私自身の心情や思考と重なります。それは夢想であり現実的
な構想でもある。荻窪の小劇場空間アパラタスこそが、原作に描かれて
いる空間だと錯覚するほど、私たちの活動精神と重なるのです。
少年時の夢想、原作の基調となる妄想は蘇らせます、私自身の少年時の
細い脚の膝小僧のように微かに震えながら地面を踏ん張って駆け出そう
とする頼りない歩調を。いくら力を込めて踏ん張って立とうとしても、
地面からすこしだけ浮かんでしまう。そんな無力感、言いかえれば浮遊
感から芸術が生まれるのを感じるのも私自身でした。密やかな気持ちが
遥かなる遠方へ飛ぶ。
荻窪の「夢の共和国」アパラタスが、地下2階から外に出て空高く浮か
ぶほどの静かで強い精神、今。
2016/1/14 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.280より]
新年 明けまして おめでとうございます
本年も どうぞよろしくお願いします
昨年はアパラタスに於きまして、12作品94回の公演を行いました。
他に国内外のツアー公演やパフォーマンスは44公演で、合計138公
演になります。数多くやれば良いと考えているわけではないのですが
様々な試みや成果を得ましたことは、みなさんのご来場とご支援がなけ
れば実現は不可能でした。年頭の挨拶と共に感謝いたします。
本年は新たな心構えをもって、じっくりと稽古、創作、公演へ向かうべ
きであると肝に銘じています。勉強なくして前進はありません。
当たり前のことですが、何度でも心新たに最善の準備を重ねる決意を強
くしています。
音楽に学び、美術に学び、文学に学び、人間や自然を学び、ダンスを
より深く求めていきます。
世阿弥は「その時々の初心を大切にせよ」という意味の言葉を残され
ていますが、グループとしてのカラスが30年を過ぎ、私自身は60才
を過ぎた今、私たちグループのメンバーは、各自のこの時期の「初心」
を自覚して学んでいく決意こそが大事と考えています。
この困難な時なればこそ、おおらかな気持ちをもって日々の練習稽古
を真剣に重ね、みな様と共に喜びの時代にしたいと私は考えています。
2016年 元日 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.271より]