Blog / ブログ

2015.12.16
2015年12月16日

 
「天才的な時代」 090
            photo by Sakae Oguma
 
シアターXでの連続公演を終えて3日目の今日、スウェーデンの
第2の都市ゲーテボルグへ向かいます。来年3月に新作初演の為
に出演ダンサーたちにワークショップを経験してもらう目的です。
今回はわずか一週間の滞在ですが、正式の振付作品作りは2月
から一ヶ月かけて行います。勅使川原の2作品で構成される一
夜になります。その勅使川原プログラムは数週間つづきます。
タイトルは「メタモルフォーシス(変容)」と「トランキール
(静か)」で、合わせて一時間半の公演になります。
 「ある晴れた日に」と「ゴドーを待ちながら」の2作品を上演
できましたのは、とてもありがたいことでした。その直前はアパ
ラタスで「ペレアスとメリザンド」を上演した直後に、荻窪から
両国に移動したのですが、その前にはヨーロッパツアーで、「鏡
と音楽」、「ある晴れた日に」初演、「オブセッション」、「エ
クリプス」と連続公演をしていました。さかのぼれば、その以前
にはアパラタスで、、、というふうに一年中途切れることなく日
本とヨーロッパで創作し公演で廻っていた2015年でした。
 大充実のダンス経験と困難を含む試練を共有した私たち
KARASの一年でした。
 すでにご案内のように年末28日月曜日午後7時からにアパラ
タスで「BOUNEN(忘年)」を催します。いつもより気軽な1部と
2部の分けた内容でダンス&トーク&ドリンクの集まりです。
この時節、ご予定が重なっておられる方がいいると思いますが、
時間のゆるすかぎり遊びにきてください。
 踊り納め、いや納まらないでしょう。この先の閉ざされた一度
も開いたことのないところに分け入る始まりとなるでしょう。 

                2015/12/16 勅使川原三郎
                   [メールマガジンNo.264より]

LINE
2015.12.14
2015年12月14日

 
IMG_0406
 
今日が「ゴドーを待ちながら」の最終公演です。そして今年の最
後の公演でもあります。とはいっても私としてはいつもと変わら
ぬ一日になるでしょう。
ゴドーについてはいままで書いてきましたが、すべてはテキスト
と身体の結晶になる公演にしたいと思います。
今日は多くを語らず、良い準備をして舞台に向かいます。
そして皆様には一年の締めとしての公演を楽しんでいただけたら
うれしく思います。 

                2015/12/14 勅使川原三郎
                   [メールマガジンNo.263より]

 
 
追伸、実は本当の今年の締めは、28日(月曜日)の荻窪のアパ
ラタスでの忘年特別公演「Bounen」です。7時から2部構成で
たっぷり踊ります。ぜひお越し下さい。

LINE
2015.12.13
2015年12月13日

 
メルマガ用 [復元]
 
あと2回の公演に向かって
シアターXでの「ゴドーを待ちながら」の初日から3日目までの
公演によって、私はこの作品がどういうものであり、私の中心、
いや核心にというものがどういうものであるのか、薄い皮膜を一
枚一枚はがすよう見えてきているように感じています。
私は自分が何者かなどそもそも興味はない人間です。そんなこと
はつまらない趣味の領域で、自分には到底太刀打ちできそうもな
い相手を見つけては闘いを挑むことに精を出すべきでしょう。
ゴドーとはなにか?どんな意味なのか?正直に言えば、私は全く
興味を持ったことがありません。面白いと思うことは、原作から
なにがこっちに飛び込んでくるのかを受け取ることです。対象に
よって自己を発見するなど、助平のやることで相手と格闘して相
手を知り、相手を超える凄いものを求める、その方がよっぽど面
白い。
どこにだれが、、、潜んでいるかわからない闇の中、藪の中、、
宇宙の果てかもしれない、詩の向こう側か、光の向こう側か(そ
う言えば以前、『Light behind the light 光の反対側の光』とい
う作品を作ったことがあります)、、、言語への身体の闘争、
等々、、切りがありません。
物理学には興味がありましたが、そういう興味とゴドーへの興味
は、私にとって同類なのです。絵画、映画、音楽、建築、、み
な、そうです、なにが動きを生み出すのか、私のダンス経験は考
えることから始まり、身体と動力の関係を考えることが、ダンス
の不可能を知り尽くそうとしたことの示唆を得て、そこから破壊
と消滅や生誕と持続を自分の身体を通して研究してきました。私
たちがやりたいのは、知らないことを手に取り親しくつき合うこ
とです。形と動きはそこから生まれるという実践をしています。
 不安定だからこそ動きつづけることができる。安定からは動き
は生まれない、すでに約束された保証からはなにも生まれない。
表現や行為の価値は、随時、実証されるべきであって、絶対的な
価値などない。
 
 いつ始まったのか、いつ終ったのか、わからないダンス。
 
 いつ始まったのか、いつ終ったのか、わからない命。
 
 始まりなく終りなく、、生きる。
 
そんなことが私の理想です。
ゴドーはそれに通じると思うのです。 

                       2015/12/13 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.262より]

LINE
2015.12.11
2015年12月11日

 
ゴドー
 
昨日は、両国のシアターXでの「ゴドーを待ちながら」の初日で
した。とても充実した公演になりました。3日前まで上演していた
「ある晴れた日に」とは異なる既存の原作を基調にした作品で、私
独自の「ゴドー」です。
私自身の語りを全編に構成し発せられた言葉群は、活き活きとした
舞台の出現を目指しました。言語の独自の質と流れを持続すること
が必要と考えて、発音や語調は俳優のような演劇的発声や標準語風
の言葉使いを避けました。浮浪者である登場人物に堅苦しくない軽
さを与えました。
内容の詳細は見てのお楽しみというわけですが、既製品のようなベ
ケット観に興味がない私は独自で自由な精神で原作からぐいぐいと
離れて行きました。ある方からベケットというよりあなたの創作で
すね、という趣旨のことを言っていただき、私は勇気づけられまし
た。他にも様々な言葉を多くの方々からかけていただきました。あ
りがたいことです。
初演は荻窪にある私たちの拠点アパラタスにおいてでしたが、劇場
空間の異なることも再演における重要な要素です。初演時とはかな
り異なる空間構成を作りました。共演の佐東利穂子のいつもと違う
存在にも注目あれ。
今日を含めて、あと4回の公演です、こちらシアターXでもアップ
デートします。 

                       2015/12/11 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.260より]

LINE
2015.12.10
2015年12月10日

 
メルマガ用 [復元]
 
「ゴドーを待ちながら」は両国のシアターX(カイ)にて、本日、
夜7時30分から初日が開けます。現代演劇に大きく方向転回させた
作家サミュエル ベケットの戯曲をもとに、かなりの部分を新たに
構成した約一時間の公演です。
勅使川原の普段のしゃべり口調で語りつづけた言葉の動きと身体の
流れ、演劇かダンスかという枠を遊泳するようなパフォーマンスを
心がけました。もちろん難しい作業ではありますが、言葉や身体の
枠組みを深く浅く、近くに遠くへと現実と現実の間(はざま)の
超越に身を投げ出し、もう戻って来ない覚悟であります。
現実とはいかに遠方にあるものかと私は考えています。
(稽古ノートより)
人間は言った言わないの喧嘩に終始し、生きるか死ぬかを問題の
すり替えに使い、事の次第をぼやけさせる。来るか来ないかが
作品のテーマというより、なにがこの作品を書かせたのか、なにが
この作品を踊らせるのかを私は求めたいと思います。 

                       2015/12/10 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.259より]

 

LINE
2015.12.07
2015年12月7日

 
メルマガ用 [復元]
 
さて次回の公演は、12月10日から14日まで、「ある晴れた日に」と
同じく両国シアターX(カイ)において「ゴドーを待ちながら」です。
サミュエル ベケットによる演劇史上最も重要な戯曲のひとつと言われる
作品で、言葉と身体の歪んだ交差によって作られる関係性によって
ユニークな世界が現れます。
内容は、二人の男がいつ来るとも知らないゴドーという謎の人物を
まちつづけるという話です。全編の一時間を勅使川原一人の語りに
よって構成します。原作からかなり言葉を変えることによりこの
勅使川原版ならではの日本語リズムを身体的に獲得しようとしました。
シュルツ作品や「ある晴れた日に」も同様の手法を用いている録音
した語りと身体の在り方と動きがダンスになる作品です。通常の
ダンスとは異なりますが、私はこの手法に増々魅了されていて、
今後も新作を作りつづけるつもりです。
現代演劇史上、数多く上演されたこの戯曲は、もっと活き活きとした
公演が可能であると考えていますが、私は勇気と大きな喜びをもって
立ち向かいます。
作者のベケットは言語のみならず身体を強烈に注目した希有な作家
ですが、ミニマリズムの膨張と極小のオペラを目指した芸術家である
と私は考えます。減るものと増えるものとが交差するエネルギーに
劇性を与えていると言えないでしょうか。
身体の豊かさよりも貧しさに注目し、増えるのではなく減ってゆく
道程としての身体、空間という概念を極力抑え込んだ、とても
ユニークな創造者であると、私は考えます。私の内側に潜む量産する
拡張エネルギーと消失しつづける揮発性エネルギーは、常に私の芸術
創作に多大な影響を与えています。何かを実在させる為に。 

                       2015/12/07 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.257より]

LINE
2015.12.06
2015年12月6日

 
2O3C9510クレジット入り
 
今日は「ある晴れた日に」の最終日です。
初日から綿密度が高まり作品としての力が増してきました。
この作品も私たちにとって重要なものとなることを確信しています。
ガルシア マルケスの短編「マコンドに降る雨を見たイザベルの
独白」のテキストを基調にした内容と私たちの身体性が構築する
空間とが力強く合体したこのダンス作品です。
マルケスの超現実的描写と私が構成した音楽や様々な音群によって
独特のリズムと身体の内部深くから湧き上がるうねりが、単なる
動きの連動ではない劇性を放射していると私は考えます。
光の多様な変化による無時間感覚から時間の表出が制御されて、
自然界と人間とを結びつける透明のロープになっています。
構成された人工と手が下せない自然が人間を自分自身に振り向かせ
る動力となる時、ダンスの明解なメカニズムを発動できると私は
感じることができます。こむずかしい言い回しになりましたが、
私はこの「ある晴れた日に」の東京版によって重い物を動かす時に
用いるテコの原理のような力学的作用を予兆しています。もちろん
そこには内面性、心理とは言わない、精神と言える感覚の根底に
潜む力の湧き上がりを実感してもいます。
なにげない日常が長雨によって生活の全ての意味が剥ぎ取られて
しまい、当然持っていたはずの自我や実感が失われていくのを無抵抗
に受け入れざるをえなくなり、存在が流される水の水面に浮き始め
てから無力こそが自己確認の唯一の手だてになりさがる。これは
決して悲劇ではなく人間のある種の末路であることは確かなようです。
こんなことも私は考えることができるのも、この作品を作ることが
できたからであり、私は創作と上演に力を与えてくださった方々に
感謝します。
作品は成長しなければなりません。一度生まれたものは、その生を
全うしなければならないと私は考えます。
人間はすでに許されていると私は考えもしますが、いや、はたして
自分自身はそのことを生の保証だと勘違いしていたら、私の知力と
体力は急激に衰えて、自分の死さえ気がつかないまま生きることに
なりさがることもありうると思うのです。
作品のラストシーンで自分の死に気がつき、最後にもう一言を言おう
とします。
原作にはそこにはっきりと台詞が書かれていますが、
「私は思わず、、、」と言いかけてその先を言わない終り方にしました。
なぜなら私はまだ「思わず」と言うべきものがないからです。 

                       2015/12/06 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.256より]

LINE
2015.12.05
2015年12月5日

 
写真
 
                             写真 勅使川原三郎

 
今日はシアターXでの「ある晴れた日に」の3日目です。
ガルシア マルケスの短編「マコンドに降る雨を見たイザベルの独白」
からテキストを引用して、佐東利穂子の語りを基調にしたダンス作品。
このように語りが全体の構成の主軸になる手法は、シアターXで連続
公演しているブルーノシュルツ原作の作品群と同様に、ある種の劇性を
もちこむことを目指しています。
マルケスの死に対する人間のおののきや驚きが、長雨の不思議な力が
人間の感覚を狂わす奇妙な体験描写が重要な柱ですが、やはりその中に
シュルツが描く空間性や柔軟な視線を私自身が見いだす作品になっている
と考えます。
出演は、先週「ペレアスとメリザンド」を踊っていた佐東利穂子、
来週「ゴドーを待ちながら」をやる勅使川原、成長著しい鰐川枝里
独特の身体感覚の加藤梨花です。
私はこの作品に不思議な魅力があると感じています。
ダンスであることから決して離れることのない身体が、上演と共に
作品は成長すると確信しています。
「生命を得た骨格は、人の手をかりない人形のように不安定こそ特徴の
厄介な自由を技術にまで高めてこそ、ダンスは活き活きと人の手に戻ってくる。」これは私の言葉ですが、ダンス作品「ある晴れた日に」が
ご覧くださる皆さんの手元に届くと期待しています。
作品のラストの方で踊るのは、サラ ボーンが歌う「ラバース コンチェルト」で、以前からいつか踊りたいと考えていた曲です。
本当に私たちは幸せ者です。自由に創作したこの作品は、今後もヨーロッパ、
アメリカの各地での上演は充分に可能です。
今日は3日目、公演を重ねて私たちは作品と共に成長します。 

                       2015/12/05 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.255より]

LINE
2015.12.04
2015年12月4日

 
写真
                            写真 勅使川原三郎

 
今日はシアターXでの「ある晴れた日に」の初日でした。
この作品はポーランドで初演したものですが、作品内容を大幅に
変更しました。全体をとおしてのテーマである長雨は変えず、
加えてガルシア マルケスの短編「マコンドに降る雨を見たイザ
ベルの独白」からテキストを引用して、佐東利穂子の語りを基調にした
ダンス作品になりました。この語りが全体の構成の主軸になる手法は、
シアターXで連続公演しているブルーノ シュルツ原作の作品群と同様に、
ある種の劇性をもちこむことを目指しています。
マルケスの死に対する人間のおののきや驚きが重要な柱ですが、やはり
その中にシュルツが描く空間性や柔軟な視線を私自身が見いだす作品に
なっていると考えます。
出演は、3日前まで「ペレアスとメリザンド」を踊っていた佐東利穂子、
来週「ゴドーを待ちながら」をやる勅使川原、成長著しい鰐川枝里、
独特の身体感覚の加藤梨花です。
私はこの風変わりな作品がとても好きです。まさに生まれたばかりの、
少しよじれた口調になりますが、何度目かの生まれ変わりの誕生が、
公演によって実現したとでも言い換えてみましょう。
ダンスであることから決して離れることのない身体があります。
上演と共に作品はより良くなり成長します。
「生命を得た骨格は、人の手をかりない人形のように不安定こそ特徴の
厄介な自由を技術にまで高めてこそ、ダンスは活き活きと人の手に戻ってくる。」
これは私の言葉ですが、ダンス作品「ある晴れた日に」がご覧くださる
皆さんの手元に届くと期待しています。
作品のラストの方で踊るのは、サラ ボーンが歌う「ラバース コンチェルト」で、
以前からいつか踊りたいと考えていた曲です。
本当に私たちは幸せ者です。自由に創作したこの作品は、
今後もヨーロッパ、アメリカの各地での上演は充分に可能です。
今日は2日目、公演を重ねて私たちは作品と共に成長します。 

                       2015/12/04 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.254より]

LINE
2015.12.02
2015年12月2日

 
1123-04
1123-06
 
大充実の「ペレアスとメリザンド」公演の後、間もなく新作公演があります。
昨日から両国のシアターX(カイ)における新作「ある晴れた日に」
(12月3~6日公演)の仕込みが始まりました。
先ず照明を作る作業が重要ですが、どの公演でも私が最も気を使い時間を
かけるのがこの仕事で、私自身が一番楽しみな時間です。
照明作りよって文字通り作品が徐々に見えてきます。
照明作りとは、単なるライティングによる明るさの変化を言うのでは
ありません。空間の広がりと凝縮、時間感覚の伸び縮み、その空間温度の変化、音楽の響き方や聴こえ方、出演者への視点制御など、あげたら切りがないほど多様で複雑な役割が、照明の作り方によって全く異なるものになるのです。
今日は照明と音楽やノイズなどとの調和を作り仕上げます。もちろんダンサーがその中の重要な要素として登場してシーンが表れてきます。シーンを作るということなのですが、実際はそれまで存在しなかった不可思議なものが出現するのです。それが仕込みの一番の楽しみであり醍醐味です。すでにポーランドで初演はしていますが、必ずこのシアターXで成長した作品を
提示したいと強く考えています。雨が降りつづける街、体内に雨が降りつづける人々、淡々と力強く身体と雨がデュエットする。間接的にブルーノシュルツから影響を受け微かにガルシア マルケスと暗黙の会話をしながら出現した長雨を主題にした「ある晴れた日に」はもうすぐ初日です。
出演は勅使川原三郎、佐東利穂子、鰐川枝里、加藤梨花です。
どうぞご来場ください。 

                       2015/12/02 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.253より]

LINE
2015.11.26
2015年11月26日

 
クレジット入り
 
今日は、アップデート ダンス no.28「ペレアスとメリザンド」の3日目です。
創作を常により良く更新していく「アップデート ダンス」の名に恥じない
出来栄えだと言ってもよいだろうと私は感じています。
今年春に初演した後、比較的早い時期の再演ですが、佐東利穂子のダンス
と全体構成に磨きがかかりまた一歩成熟した公演になっています。
ドビュッシーの同名のオペラを基にして創作したダンス作品が、
日々熟成していく「姿」が闇から浮かび上がります。佐東利穂子の身体、
それ自体が芸術と化したと作り手の私が発言したとしても決して大げさ
ではないと感じていただけるだろう、と私は思います。
様々な事件があるのは世の常と言うにしても、人心の混乱を意図する
暴力が、世界や国内の各所で起こす限りのない不安感が「境界」を
超えて人々を襲う。芸術が発する力が生きる為の助力になり、
美しいものがその持続に喜びを与えることを実証すること、
それが創作者の仕事です。私は暴力を撲滅しようと言いたいのでは
なく、抵抗としての芸術を毎日作りつづけることこそが、私たちの
仕事なのだと自覚しています。つまり美しいものが持つ力を信じて、
作品を作りつづけることです。
そして、少し違う言い方をするなら、ロマン、ロマンティックと
いうことも、私は近頃よく考えます。人間の心の中にある美しいもの
への愛情、親しみ、親密感、それらを求める愛欲、それらを否定的に
思わぬこと、ロマンティックなことを求める厳しさ、、
甘ったれの馴れ合いではなく、これだけは逃したくないという
胸が熱くなる思い、それを私はロマンティックな気持ちだと思い
ます。厳しさを伴う甘辛のロマン、辛い甘さ、断崖絶壁の高揚感、
急転直下の中の浮遊感、ロマンティックな世界観を作曲家クロード
ドビュッシーは、だれにも成されなかった音楽的方法で出現させ
たのだと私は考えています。佐東利穂子が、その音楽の中に溺れ
るように身を投げ、身を任せる。その時、佐東利穂子のダンスが
芸術になるのだと私は考えます。 

                       2015/11/26 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.252より]

LINE
2015.11.20
2015年11月20日

 
AI_画像
 
パリ、シャンゼリゼ劇場の「鏡と音楽」の公演の後、ヨーロッパを
ツアー中にパリでのテロを知りました。多くの市民が命を落とした、
この悲惨な連続テロは普通の生活をしている人々を虐殺することが
目的だった。こんなテロがあってはならない。
しかしこのような暴力が各地で起こりうるのが現在の世界の情勢だ
ということも理解しなければならない。この社会、この世界はこれ
ほど混乱している。同行した私たちのフランスの友人や仕事仲間たち
とこの惨殺について話しましたが、フランスやヨーロッパの市民生活
の根底に潜む隠れた不安や危険は、宗教問題以外にも様々な理由が
あるようです。
私たち日本人には知らない、わからない歴史や状況があり、彼らにも
どうしたら良いのか苦慮する現実に困りきっているという印象でした。
しかし私がのん気に私たちには理解できないことと言って現実を無視し
てはならないとも強く感じました。それは政治的運動を起こそうなどと
私は決して言いません。
私ができることは身体と美術を用いた芸術です。表現です。
それに自分の力を全て注ぎ、美と精神が結びつけることを表わすことです。
私はそれが無意味だとは思いません。平穏やうれしさ、人生に静けさを
求め美しいものを他者と共有することを決して諦めないことです。その
ためには努力しなければ得られないことは、私はすでに知っています。
私には解決策など持ち得ませんが、日々の稽古、日々の思考や試みの積み
重ねは、平穏やうれしさを得るためです。無力な私ができることは日々の
積み重ねでしか得られないような些細なことです。
そのことを、自信を持って言いたいのです。だれでも、それならできそう
だというその人に合ったことをするしかないのですから。
 
ハンガリーからフランスへ移動する時に少し心配した空港や街の安全は
確保されていました。テロに関する情報が1日24時間止めどもなく
発信され、今後の危険を注意するような内容が多いようです。
単なる不安ではなく危険は常にうごめき動き回っているのです。
何が本当の情報かもきちんと判断しなければ過度に惑わされもするでしょう。
ご存知のように劇場公演やコンサート、公共の催しは中止でした。
パリでなくリヨンでも劇場の公演の多くがキャンセルと聞きました。
 
そういう不安定な社会状況のフランス、その南西にある小さな街ポウ、
ここでの公演は実施されました。約3年前にイタリアで創作した作品
「エクリプス」を公演しました。公演後、私たちはこの作品が、難しい
状況のフランスで公演できたことがうれしかったです。
一人の観客が楽屋を訪れて、上手に言葉で言えないという風に身振り
を交えながら、今の私はこれが必要だった、美しい作品でした、
ありがとうと思いを話してくれたのもうれしかったです。私は、公演して
良かったとつくづく思いました。「芸術家は作品を作りつづけて発表する
ことが仕事なのだ」、そう自分に言い聞かせました。
「その時は何らかの責任も負わなければならない」ともこだまのように
聞こえてきました。 

                       2015/11/20 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.250より]

LINE
2015.11.10
2015年11月10日

 
メルマガ用 [復元]
 
メルマガ用 [復元]
 
パリ、シャンゼリゼ劇場での「鏡と音楽」は、大盛況、大成功
のうちに3日間の公演を終えました。2009年に新国立劇場で創作
した「鏡と音楽」はヨーロッパを中心にアメリカやアジアなど
の多くの都市で公演している作品です。3年前に同じパリの国立
シャイヨー劇場でフランス初演したのですが、今回はシャンゼ
リゼ劇場の熱心な要望により再演することになりました。同じ
都市でこれほど期間あけずに公演することは、普通は絶対に
ありえないのですが、実際に公演が実現して素晴らしい成果を
あげたのですから、プロデューサーの手腕ということになるの
でしょう。そしてやはりKARASはヨーロッパ、特にフランス、
パリで多大に支持されていることの証と言っても大げさでは
ありません。
 
作品は初演からの良い変遷を経て強く成長しました。教育プロ
ジェクト「空気のダンス」公演から育ったメンバーの4人が、
参加した初演からメンバーも入れ替わり、作品としても成長し
た大人のダンス作品になったと言えます。半数が入れ替わった
後の作品がいまだに活き活きしてダイナミックで、そして深い
内容が客席までに届くのは、初演時から変わらない確固たる構
成が柱にあるからだと言えるでしょう。作品は年々経験を重ね
るごとに成長するものです。人間の成長のように内側が成長す
るのです。作品(内容)は常に生きる生命のようなものです。
充実した内側の働きがなければ、外側には決して良いものは表
れません。それは一人にダンサーでも、グループ全体としても、
作品としても同様です。その意味で今回のパリでの再演の成功
は意味深いと感じています。日々の小さな積み重ねが、ある時、
なにかしらの成果を表す。そういうことの不断の歩みが基盤で
あることも再確認した公演でした。誇大宣伝した催しでは決し
て有り得ない地道な確かさです。
今回のツアーはまだ続きます。ハンガリーで「オブセッション」
を、フランスに戻り「エクリプス」を公演してまわります。
11月に入りヨーロッパの気候は穏やかになりました。落ち葉が
カサカサ音を立てて軽やかに追いかけっこをしています。 

                       2015/11/10 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.245より]