「オフィーリア」(シェイクスピア原作)の改作再演の初日。
前回以上にオフィーリアという人物をより深く探究し作品を
明解にしたいと準備を進めていた。公演初日は毎回ある種の
特殊な緊張感の中で行われる。もちろん不安はあるが、それ
以上にできることを実行することが何より大事だ。
そして公演、そして終演。そして「ああ、なんて充実した時
を生きたのだろう」と思う。毎回公演直後に観客に向かって
我々は率直な感想を述べるのだが、我々の声ははっきりと明
るく響いた。どのように作品に向き合い何を感じたか、心意
気みたいな少し勢いがある言葉は発せられる。暗中模索をダ
ンスによって通り抜け、実際に身体の全てと気持ちの全てを
開いて。秘めていた底知れぬ物に触れた実感を言葉にしよう
とする。だが、そう上手く話せるわけではない。それでも言
葉を探ることこそ、我々が求めていることだ。ダンスだから
黙っていていいわけがない。無理をしてでも言葉にしようと
すること、それこそがダンスを助けるのだし、ほんの少しの
動きの差でも確かな出来事になるとぼくは信じている。
昨日得たことが確かであるかは、今日の公演でわかる。
新たな再演、新たな再読、新たな再発、新たな再考、
新たな命が生まれるのだ。我々は決して大袈裟だと思わない。
巡りゆく血液がダンスを生み出す事実。
なんて当たり前でおかしな話だろう!
原作者シェクスピアには想像もつかないダンスが500年後の
日本から小石のように投げ返されるのだから。
時も話も辻褄が合わないが、まあ身体なんてそもそもロジック
では動かないから面白いのである。
オフィーリアは何を歌ったのか?
バッハやバルトークからシェイクスピアへ。
偉大な作家の名前に意味があるのではなく、
音楽と文学、音と言葉から身体の有り様を変える力を得て、
佐東利穂子は「オフィーリア」の改作再演に向かっている。
オフィーリアが何を見たのか?何を聴いたのか?何を感じたのか?
オフィーリアは何を歌ったのか?
美しいのは声。オフィーリアと空気の震え。
激しい彼女の拒絶と緩みの感情が、悲しみより深い空へ蒸発する。
乾いた涙で形作られたオフィーリアの細身が、水面を彩る。
涙のように沈んでゆく顔、目に映るのは緑色濃くなる黙った低い空。
誰にも見られることがない空。
舞台上で佐東利穂子が見る、聴く、歌う、踊る。
オフィーリアが踊る。佐東利穂子が歌う。
役を演じるのはない、役を表現するのでもない。
一人の人間が作品の中に消えてえゆく。
人間が人間の中に消えてゆく。
身体がダンスの中に消えてゆく。
身体が命の中に消えてゆく。
消えてゆく命がダンスの中に現れてくる。
日々、佐東利穂子は現れる稽古と消える稽古を繰り返している。
「オフィーリア」公演の初日まで1週間、稽古は順調に進む今日この頃。
数日前にヨーロッパ公演旅行から帰国。作品は「バッハ / バルトーク」。
佐東利穂子と私が踊り、ヴァイオリンは庄司紗矢香さん。すでに10年くら
い、お互いの公演活動の合間に共演をつづけている。
今回は以前に増して素晴らしい公演であった。自分たちのことを賞賛して
しまうわけだが、本当に、実際にとっても良い演奏と圧倒的なダンスの連
続であった。特に佐東利穂子の踊り、つまり全身の細分から発せられる質
感の変容は単なる身体の動きでは表せない、なにかが音楽との共鳴や不調
和を超える舞踊的魅力に満ちていた。
ダンスが従来もっている、或いは保ってきたと思われる、技術的表現では
ない直感と即応的制御が強烈に働き合う。であるからこそ無垢な気持ちに
なげかける「贈り物」のような動揺。少し小難しく書いてしまうが、もし
文字にするならということだ。
(つづく)
今日、初演「テンペスト」の公演の4日目を迎える。
毎回新作品を作る時には多く学びと発見があるが、特にこの作品から深く強い力を感じ取った。
シェイクスピアの戯曲「テンペスト」のダンス、佐東利穂子とのふたりの出演。主人公プロスペローは知性ある魔法を使い、権力意識、裏切り、復讐など様々な葛藤が名声と身を揺るがすが、最終的に無力な素直な自分に戻るしかなくなる内容である。中世ヨーロッパの話が現在の人間に胸に届く射程の確かさと美しさはダンスを創作する立場に驚くような喜びがある。ふたりは時にプロスペロー、化け物キャリバン、空気の妖精エリアル、他にうごめく者たち、自然であり人間である。今日もそして続く日々の公演に力を尽くす、発見と前進。
「ハムレット」の改作公演は前半の4回を終えた。まさに改作であり、新作に近いほど作品に注入された意思と身体+空間のエネルギーは最大値に向かった。なぜなら改作中に新たな発見があり、初日からより深い考察と試みが自在に発揮できたからである。
創作作業と原作へのアプローチとが共有する「問いかけ」が力を生み出している。
そしてご来場の観客から得られる「問いかけ」の振動に深く感謝する。
後半の4公演に向かい、より身が引き締まる。
「ハムレット」のダンス作品を作る理由
声によるセリフを伴った演技ではなく、身体の動きあるいはダンスによって
ハムレットを上演する術は何か?
原作を表現するのではなく、原作が投げかけるものとどのように立ち向かい、
何をどのように投げ返すのかを問うこと。
演技をするハムレットではなく、
ハムレットという身体が何を感じ、どのように死と生の間を生きるのかを探ること。
理解不可能な内容から身体的に受け入れうることを探すこと。
原作から逸脱することをいとわず、身体を解体すること。
盲人の動作のように始めるにしても、上演中に的確な一撃を的に当てること。
勅使川原三郎
「ハムレット」の舞台
舞台上にハムレットひとり そして他には死と死の周りに彷徨う影たち
父の亡霊、友人たち、母ガートルード、父の死後に王となった叔父クロ
ーディアス、恋人オフィーリア
暗闇はハムレットの頭脳の中で死する暗い空間
そこは闇が支配し 光がほとんど届かない息苦しさが支配
喜びが与えてくれる光が届かない思いの深い底
決定的に刺す細く強い光が意思
その強固さゆえに 自身の命と死とを互いの支えにして格闘する。
父の死への復讐が成就しなければハムレットの精神と身体が休まることはない。
父こそハムレットをささつづけた血。
ハムレットの死が運命的であり 復讐が宿命だった。
宿命によって正しく死を獲得するのである。
穏やかな空気の緩みのようにハムレットの血の細い流れが死を全身に行き渡らせる。
死に向かう時
平穏がハムレットを包み込む
生まれた時のような命の温もりを
死が与えてくれる
勅使川原三郎
「ロミオとジュリエット」について、
ぼくは皮肉と矛盾の物語と書いたが、
考えを進めるうちにねじれてはっきり
してきた。原作者は不可能の愛を成就
させるために二人を死なせたのだ。
死者として一緒になれるようにした
強制的な心中物語なのではないかと。
そこでぼくは徹底した悲劇的なダンス
作品にしようと思った。
ダンスを悲しい舞踊詩にしたいと。
誰からも求められない死のロマン。
ロミオとジュリエット、いや彼と彼女、
いや誰かと誰か、いや一人と一人、
身体と身体、空っぽと空っぽ、
闇と闇、闇と闇は一つの闇になる。
感情が詰まった闇、は消えてゆく。
風にのって来て桜を咲かせて散らせた春が
長く伸びた雲に寝そべっている
今週末の土曜日に初日の「ロミオとジュリエット」の準備の日々。
すでに数えきれない解釈があり演出され、時にバレエ化もあるのは
知ってはいるが、ぼくはそれらについてほとんど何も知らない。
ぼくがやるのは解釈や理解ではなく、物語を文学から解放し想像
すること。こっちの方から遠くのあっちに何かを投げ返すことだ。
書かれたことと書かれていないことの間を探り、謎を見つけて形
を与える。それがぼくがやれることだ。
日々が謎々。
ダンスには独特の力、やり方がある。明瞭さからずれてまとまらない
時、予定調和ではない力が生まれる。そのように考えるのは、
ぼくが矛盾と葛藤する終わりがない渦の中にいるからだと思う。
この小さな男はいつものように大空を見上げては、思いっきり息を
吹きかける。
新作「インダストリアル ブック」は2回を終えて今日が3日目。
充実した精神が作業した新たな結実。2026年3月のノイズによる記述。
様々な強度が重なるノイズ、物質と精神、記憶から突如吹き出す現在。
飛び散った空間の破片、無意味が歌う失われた音楽。
物語の無い身体に刻まれたノイズロマン。
過去にもノイズを主テーマにした作品を作ったが、これはまさに過去
から吹き出した「現在」だ。
音楽構成は自分の新作ノイズから始まり様々なノイズ音楽が重なり、
ブラームスのピアノソナタやバッハのオルガン曲を織り交ぜ、
ゴダールの映画「軽蔑」のテーマ音楽をかぶせてノイズを増幅させた。
2026年初のアップデートダンスは、#117「音楽ノ星座」です。
去年末から一週間が経ち、佐東利穂子の存在とともに作品が姿を現した。
全体はピアノ曲で構成。前半にリゲティの澄んだ音色が鮮明に響く、
冷たい冬空、凍てついた指先に触れる星々が煌めき、中盤はラフマニノフ
の無言のロマンが天空から舞い降りる、後半は再びリゲティの鋭い響きが
夜空を切り裂くが如く縦横に光を放ち、余韻の中に光は失われ満天の星々
は闇に溶け、最後の最後に残った欠片が光る。
佐東利穂子が動き踊る。場面描写も感情表現も無く、ただ純粋に動き踊る。
時を超えて、遠い未来と遠い過去を行き交う今、年の初めに。
