Works / 活動紹介

加速化する静止

期間:2013年9月20日—11月4日
会場:KARAS APPARATUS
 
「加速化する静止」は映像とドローイングによって勅使川原三郎のダンスの真髄に迫る、
自身の創作スペースであるKARAS APPARATUSでの初めての展示企画です。
彼のダンスがそうであるように、唯一無二の身体感覚からくる独創性にあふれたドローイングは、
有機的な2本の平行の曲線で緻密に描かれています。
この企画では25点を、ホールにインスタレーションのように展示しました。
 
フィルム上映では勅使川原の身体へのまなざしや思考そのものを独自の手法で映し出した映像作品と、KARASの公演ハイライトシーンを3プログラムに分けて上映しました。
 
[フィルム上映プログラム]
■Aプログラム
・Perspective Study vol.1
・T-CITY
■Bプログラム
・Friction of Time - Perspective Study vol.2
・KESHIOKO
・A Tale Of
・フォーレ島にて
■Cプログラム
・公演映像ショート・エディット
 −Glass Tooth
 −NOIJECT
 −SHE-彼女- 
 −石の花
 
 −ミロク 
 −Luminous
「加速化する静止」に寄せて
勅使川原三郎
 
私はダンスする身体を自分の手にして踊る。身体が私をにぎって私を動かす。すると身体が
私の知らない世界を表わしはじめる。それらが既知の動きと出会い、別の動きを膨らませる。
生まれでる動きは見知らぬ名づけ難い質感によって記憶される。それは記憶された動きではない。
記憶が質感を命名できずにいる間は、多種多様な動きからは多種多様な質感が湧き出る。
この描写そのものを抽象的と言う者がいるかもしれないが、私にとって身体の動きとは、
質感の表出、質感の産卵なのだ。嗅ぐものは単なる匂いではなく、匂いがもつ動きをも感じ取る
ことができる。はたしてこれはレトリックであろうか、抽象的な空想であろうか。
私は逆に具体的で感覚に直接働きかける動きだと考える。動きは直接的であり、実体である、
と同時に常に身体的であり、感覚的である。
 
私がペンを持ち、紙の上にペンを触れさせ、手を動かす、するとインクが紙に動きを移す。
「移す」この字は間違いか。他にうつすには映す、写すなどがあり、私はどの漢字でもいい
ように思えた。平仮名のうつすがいいが、移すもいい。それはさておき、手の動きからインクへ
と写されたものは細い線となる。動きの先端の後ろに線が残されていく。先端の動きは後方の
線を導く。手の動きが線を記録しつづける。ここには強いダイナミズムが潜んでいる。線はペン
から出るインクの勢いを手の動きから移され、速度の変化が記録される。線にはそのような
記録された動きと手、もっといえば身体から写された勢いや停滞などの速度変化が義務化される。
写されつづける線に乗り移った自在に変化する速度には加速と減速という運動が厳密に記録される。
そこには直線というものが極端に少ない。ほとんどすべては曲線で構成され、すべては2本の平行線
によって動きが造形されている。動きが造形される2本線には速度が存在し質感が生まれてくる。
減速化され停滞する線、動きが無い静かな線、様々な質感をもった線があるが、止まりつつある線や
速さを急激に増す線などと動作(行動)を共にしていて感じ取ったことがある。線は必ず止まりつつある
状態をはらんでいて、結局はやはり停滞する。しかしそれが線の終了ではなく、常に静止の中に動き
つづけているのである。展覧会に「加速化する静止」と名づけた理由は、線から生まれでる質感が、
勢い、方向、速度変化などにより、動きや形を空間的にしているように感じ取ったからである。
 
私にとって線を引きつづけることは、歩くことにとても近い。歩きながら様々なものを見る。
触れると言いかえてもいいだろう。私の歩きは緩やかさから急ぎ、加速させることでより強い
身体感覚を明確に鮮明にするが、同時に常に静止への欲望から離れられない。静止の中には
動こうとする内的勢い(ダイナミズム)をおしころす身体感覚がある。呼吸が複雑な線の構成に
重要な仕事をしている。単純ではない線を引くということが複雑とはいえない意味は、身体感覚には
動きとして全体を把握している能力と技術が基本にあり、見知らぬ国へ迷い込むがごとく一寸先は闇、
一寸先の白い紙の上へほとんど盲目的な身体性をもって飛び込むのである。その動作のなんと楽しいことか。
私は線を引くことがなにより好きである。線を引くということとダンスをすることは、日常的な行動として当たり前に私を解放する。
 
私にとって、線は速度であり静寂である。
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