年末にむけて
秋口からの長いヨーロッパ滞在から帰国してすぐの「顔
Faces」公演、つづく「イリュミナシオン」の有意義で糧の
多い公演が終りました。本年の公演は28日の「BOUNEN」
のみになりました。
私と佐東利穂子を中心に今年も数多くの舞台公演を行いました。
今、ここに述べたいことは、本拠地荻窪のアパラタスをはじめ
シアターX、東京芸術劇場、そして世田谷パブリックシアターに
足を運んでいただきました皆様へ感謝を申し上げたいと思います。
直接劇場で見ていただいた皆様によって公演が、成立したことと
その時その場所でしか生まれ得なかったダンスの実現はなにより
もうれしくありがたいことでありました。心より感謝の気持ちで
いっぱいです。生命のようなダンスが鼓動を始め、苦難を引き受
けながら立ち上がる瞬間こそが公演初日でした。
我々が立ち向かって行くものは毎回異なる課題であり、その時々
の不安や解決が最後には喜びに転じてきました。身動きを止めれ
ば難題も解答もなく、それ故の爽快感は決して感じることはなか
ったでしょう。遥かなる展望には靄がかかり視界は不充分ですが、
すこしずつ晴れ間が広がります。どのようにしてか分からない、
もしかしたら風のようなあるいは時間のような見えない力によって
覆われた実象は、姿を現わして来たように思われます。
しかし現実は決して簡単では有り得ないことも同時に眼前に突きつ
けられます。姿を現わしたものが最も困難な課題なのかもしれません。
それが気づかれないようにして出現したものの裏には、抵抗し難い
偶然か、計られ定義されて準備されたかのような必然か、私には手が
施しようもないと思われる出来事が用意されえている。その理解でき
ない不可解な節度が、私の身体を圧する時、思考が動き始めることも
予感とともに自覚します。
予感とともにある自覚する今日、そして明日。明日のことなど分から
ない、分かるはずもない。
予感とともにある自覚は、今を過去にすることができる。
私にこの時、なにかを予感させます。そして過去が私に成っていくの
を感じます。私は静かに手を時間に近づける。私には、すくうべき
(水のように)ものがあり、救うべき(落下する)ものがあるように
思われる。水のような生命と言って良いのでしょうか。
私はダンスによってすくわれています。
落下しつづける生命が日々新たに浮上する。その言葉が、今、あえて
言うならば年末に向かう姿勢の私の胸元に浮かび上がります。
この小文を呼んでいただきました皆様に、
我々の活動に関心を向けてくださいました皆様に深く感謝します。
どうもありがとうございました。
勅使川原三郎
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