2016年4月6日

 
   「TESHIGAWARA」そして創作「トランキル Tranquil」
      ゲーテボルグオペラダンスカンパニーのために

 
帰国直後に創作過程の報告をしましたが、今日は作品について書きます。
上演全体プログラムの名前が「TESHIGAWARA」でした。自分の名前がその
日の公演名というのは、はじめは少し奇妙な感じでしたがすぐに慣れました。
新作は45分。20人弱のダンサーの中心に佐東利穂子を配し、全体を彼女
がひっぱるような構成を用意しました。私は、彼女独特の身体性に潜む感覚
と動きへの流動的な導き方をダンサーたちが学ぶべきだと考えました。
会得すべき技術として先ず必要だと考えたからです。これはとても難しい技術
で、1~2ヶ月の稽古で簡単に習得できるものではありません。しかし彼女の
身体が根源的にもっていて、明確に技術化している部分に関しては、伝えら
れるものがあるだろうと考えてリハーサルを重ねました。その閃光のような煌
めく(きらめく)身体が発する動きを間近に見て体験することが、
若いダンサーたちに軽やかで重要な贈り物であることを願って
佐東利穂子には常に全力で踊るように求めました。
 
彼女は初日と2回目の公演のみを踊り、その後は別のダンサーが分担し各
シーンを成立させました。今現在もゲーテボルグでは、その新たな配役で
上演されています。
 
「トランキル Tranquil 」は静けさという意味です。
ちょうど私たちは、アパラタスで「静か」という
無音のデュエット作品を作り、もうすぐにシアターX で再演しますが、
この「トランキル」は、別なアプローチをしました。
「静けさ」がノイズ(騒音)と激しい動きの中に潜んでいて、
身体がそれを隠している。
「静けさ」とは「ざわめきの中にある延長された瞬間」ではないか
という問いから発したものでした。
 
不可思議なものという明確な意味をなさない身体と動きが配置され、顕微鏡を
覗くような視点を強いられた目が焦点を合わそうとしても、
合わないような光と造形と身体とノイズのズレがつづき、
突如バッハと佐東利穂子が視覚の焦点を
合致させると微動する線と化した空間がとろける、
軟体化した天空と底深い沼の床面上にドビュッシーの精霊が拡散する、
再び遮断された視覚がダンサーたちの
活き活きした爆発的な動きによって無理矢理引き裂かれる、
延々とつづくスリル、渦巻く色とりどりのダンサーの身体は、
天空を滑るように、沈みゆく薄暗がりと現れ
でる薄明との間に滑り込むように最終的な「静けさ」へ向かう、
ダンサーたち自身が動きつづけることによって、
積み重ねてできた「静けさ」、その見えない厚みや薄さを
紡ぎながら観客に向かって歩き、歩調を強くし前進するところで突然の幕。
これが「トランキル Tranquil 」です。
 
もちろん、これらここに並べられた言葉が正確に
ダンスを描写してはいません。
しかし、私が当日劇場で見たものは以上の出来事であったのは確かです。
私の好きな作品です。
佐東利穂子は希有な煌めくダンスをしました。
存在ぎりぎりの際に立って踊る姿が美しく、
生命のエッジに爪先があるのさえ余分と思わせるはかなさでもありました。
他に変え難い芸術そのものです。
そして参加した全てのダンサーたちの献身的な努力なくしてこの
創作は実現できませんでした。ありがとう美しいダンス。
私たちは、私たちダンサーによる言葉、言語を持たなければなりません。
彼らにその思いをリハーサル初日に話しかけましたが、
私はその思いを共有することができたと信じています。
しかし私はもっと多くのこのような機会をえて、ダンスがその言葉を、
言語をもつために力を尽くしたいと思います。
ダンスが生きるために。芸術のため。価値の
定まらぬ命はどこだ?                     
                  2016/4/6 勅使川原三郎
                       [メールマガジンNo.358より]

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