2016年4月30日

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               photo by シアターX / 三村正次
 
今日は「シナモン」の3日目です。
この作品には、主に「私」が語る言葉によって導かれていますが、
その「私」は言葉を発する声であり、人物として明解に人格を有し
ているのでもありません。「私」が感じる様々な情景が匂いと共に
舞台を満たしています。時に濃密に重く、時に薄く軽く、状況や
情景が闇の中から滑らかに現れ出て、人間存在以上に動物や植物、
木々や店々、生き物かどうかもさだかでない揺れ動き消えていく物、
匂い香る、そういう非物質、空気や影、光と音、それらの変容こそ、
この公演作品の主なるもの。そのことはダンスをつくり踊る私たちに
とって、親密に受け取れることです。言葉が消える時に現れるもの
こそ心に、そして身体に浸透します。動きも動きが去った後、身体に
じわっと感じる自己自身が在ります。この自己自身ということには、
人格や関係性を超えた私という意味です。
そこには考える自由があります。
いつでもいつまでも考えていいのです。
言い切れないから考える、考えるから不明瞭さえも不安定さえも大
事に機能するを知る。理屈ではなく実質です。不安定が最高のバラ
ンスを生み、永続の方法と私は考えていますし事実です。考えること
が運動を生み出し、事物や生命を動かす。観念では動きません。
ですから私にはダンスが面白いのです。終りがない動き、いつの間
にか始まっている生きること、誰とも言えなくなる身体、身体と失った
感覚のみの生命、それらが私のダンスです。シュルツへの共感を
探っていくと自己自身で出くわしたのです。
芸術は美術でも哲学でもなく、もっと面白いものだと私は考えます。 
                   2016.4.30 勅使川原三郎
                    [メールマガジンNo.389より]

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