photo by Akihito Abe
昨日アルプス山脈の麓にある湖畔の街アネシーでの勅使川原三郎特集が
(ドローイング展と3D映像展が館内の別の空間)でオープンしました。
そこを訪れた人々は、夜8時半から始まるダンス公演にも
足を運んでくれるというわけです。この企画はまさに私自身の縮図の
ようなものでとてもうれしく楽しいものです。回顧展ではなく
力みすぎない軽い感じの良い雰囲気です。
「青い目の男」の公演はシアターXで初演した
ブルーノ・シュルツ原作の短編をダンス化したものですが、全体構成は
音楽以外に原作から抜粋された佐東利穂子の朗読が基調をなしています。
全てを日本語のままにしてフランス語対訳のコピーを渡して
見てもらいました。どれだけの人がそれを開演前に読んだかは
定かではありません。しかし言葉の重要性に身体の動きの表現が
作品の内容になり、観客の皆さんは音楽と動きつづける強烈なダンスの
冒頭から引きつけられて、集中して作品の中に入ってきてくれたようです。
それこそダンスです。もちろん原作から引用された内容であるのですから、
シュルツにより導かれた私の意思が構成したダンスの展開が、
言葉からの芸術的持続力を得た作品であることは確かであります。
言語と身体を対比して考えることに私は反対します。
言語というものは身体運動から切りはなし得ぬものであるのですから。
ですから、日本語を終始聴きつづけていた観客が、
そこに日本語が持っている身体性を感じていることも確かでしょう。
それこそがダンスとしての言葉であると、私はすこし際どい表現を
させていただきたいと思うのです。
体内に響く言葉が何語であるかをあらわにした作品という価値を
新たに認識できた公演でもあったのです。これはうれしい「出会い」
であり、それ以上に「考え」を新たにせずにはいられない課題を
見つけたようです。
「青い目の男」の公演は良い出来栄でありました。
自負できる事実であります。
そして、この作品を初演する機会を与えてくださったシアターX
および芸術監督の上田美佐子さんに感謝します。
失礼して言葉をつづけさせていただきます、
上田さんからは真の勇気の大切さを教えていただいています。
厄介な人間という生き物が、行動しつづけ表現という押しつけが
様々な形をとって向かってくる日々に、逃げずにむしろ「そいつら」
に正面から向かう気力を絶やしてはならないと自戒しますが、
いや、「そいつら」こそ「てめえ」ではないかと頬をひっぱたく日々
でもあります。劇場、芸術の最大の敵は、単純に「きどりだ」と
私は頬の後に足を踏んづけている次第です。 2016/11/17 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.631より]
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