両国のシアターXにおきまして、14日水曜日、
明日からドストエフスキー原作の「白痴」の初日が開けます。
前日の今日は舞台仕込みの日で、照明を作りました。
装置が一切ない舞台上では照明が重要性は重要ですが、特に
この作品にとっての明るさの変化は登場人物の内面と対称し、
あるいは対照し拮抗するような視覚を構成します。
いや視覚にとどまらず空気の厚さ薄さを変化させ、世界を歪ませ
る環境にも成りえます。それが、どのようなことかはご覧いただ
いて感じていただけると思います。音楽構成も丁寧に用意しました。
しかし身体がなにより力をもつことは決して変わりません。
言葉の翻訳、いや内容説明のようなダンス、動作利用や置き換え
をするものではありません。文学的なダンスを表わすことも私の
本意ではありません。文学の力は言葉から創りだされるのでしょう。
人間、人間の、言葉の力はあくまで人間を必要としていて、異国
異時代に作られた読ませる力は、果たして後年、現代に私のような
誤解者は、言語内容以上に身体的理解あるいは身体的想像力を喚起
させられて、1つのダンス作品を作りたいと願うようになったのです。
これは私にとっては事件ですが、語った作家にとっては全く無縁の
煙でしかないわけであります。しかしこの胸の中心から湧き上がる
煙は、本人にとりましては実に確かな匂いがする煙なのです。
火の無い所に煙は立たない?
だからここが熱いのだろうか?
2016/12/13 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.660より]
最近のコメント
アーカイブ
カテゴリー
メタ情報