2015年12月6日

 
2O3C9510クレジット入り
 
今日は「ある晴れた日に」の最終日です。
初日から綿密度が高まり作品としての力が増してきました。
この作品も私たちにとって重要なものとなることを確信しています。
ガルシア マルケスの短編「マコンドに降る雨を見たイザベルの
独白」のテキストを基調にした内容と私たちの身体性が構築する
空間とが力強く合体したこのダンス作品です。
マルケスの超現実的描写と私が構成した音楽や様々な音群によって
独特のリズムと身体の内部深くから湧き上がるうねりが、単なる
動きの連動ではない劇性を放射していると私は考えます。
光の多様な変化による無時間感覚から時間の表出が制御されて、
自然界と人間とを結びつける透明のロープになっています。
構成された人工と手が下せない自然が人間を自分自身に振り向かせ
る動力となる時、ダンスの明解なメカニズムを発動できると私は
感じることができます。こむずかしい言い回しになりましたが、
私はこの「ある晴れた日に」の東京版によって重い物を動かす時に
用いるテコの原理のような力学的作用を予兆しています。もちろん
そこには内面性、心理とは言わない、精神と言える感覚の根底に
潜む力の湧き上がりを実感してもいます。
なにげない日常が長雨によって生活の全ての意味が剥ぎ取られて
しまい、当然持っていたはずの自我や実感が失われていくのを無抵抗
に受け入れざるをえなくなり、存在が流される水の水面に浮き始め
てから無力こそが自己確認の唯一の手だてになりさがる。これは
決して悲劇ではなく人間のある種の末路であることは確かなようです。
こんなことも私は考えることができるのも、この作品を作ることが
できたからであり、私は創作と上演に力を与えてくださった方々に
感謝します。
作品は成長しなければなりません。一度生まれたものは、その生を
全うしなければならないと私は考えます。
人間はすでに許されていると私は考えもしますが、いや、はたして
自分自身はそのことを生の保証だと勘違いしていたら、私の知力と
体力は急激に衰えて、自分の死さえ気がつかないまま生きることに
なりさがることもありうると思うのです。
作品のラストシーンで自分の死に気がつき、最後にもう一言を言おう
とします。
原作にはそこにはっきりと台詞が書かれていますが、
「私は思わず、、、」と言いかけてその先を言わない終り方にしました。
なぜなら私はまだ「思わず」と言うべきものがないからです。 

                       2015/12/06 勅使川原三郎
                          [メールマガジンNo.256より]

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