あと2回の公演に向かって
シアターXでの「ゴドーを待ちながら」の初日から3日目までの
公演によって、私はこの作品がどういうものであり、私の中心、
いや核心にというものがどういうものであるのか、薄い皮膜を一
枚一枚はがすよう見えてきているように感じています。
私は自分が何者かなどそもそも興味はない人間です。そんなこと
はつまらない趣味の領域で、自分には到底太刀打ちできそうもな
い相手を見つけては闘いを挑むことに精を出すべきでしょう。
ゴドーとはなにか?どんな意味なのか?正直に言えば、私は全く
興味を持ったことがありません。面白いと思うことは、原作から
なにがこっちに飛び込んでくるのかを受け取ることです。対象に
よって自己を発見するなど、助平のやることで相手と格闘して相
手を知り、相手を超える凄いものを求める、その方がよっぽど面
白い。
どこにだれが、、、潜んでいるかわからない闇の中、藪の中、、
宇宙の果てかもしれない、詩の向こう側か、光の向こう側か(そ
う言えば以前、『Light behind the light 光の反対側の光』とい
う作品を作ったことがあります)、、、言語への身体の闘争、
等々、、切りがありません。
物理学には興味がありましたが、そういう興味とゴドーへの興味
は、私にとって同類なのです。絵画、映画、音楽、建築、、み
な、そうです、なにが動きを生み出すのか、私のダンス経験は考
えることから始まり、身体と動力の関係を考えることが、ダンス
の不可能を知り尽くそうとしたことの示唆を得て、そこから破壊
と消滅や生誕と持続を自分の身体を通して研究してきました。私
たちがやりたいのは、知らないことを手に取り親しくつき合うこ
とです。形と動きはそこから生まれるという実践をしています。
不安定だからこそ動きつづけることができる。安定からは動き
は生まれない、すでに約束された保証からはなにも生まれない。
表現や行為の価値は、随時、実証されるべきであって、絶対的な
価値などない。
いつ始まったのか、いつ終ったのか、わからないダンス。
いつ始まったのか、いつ終ったのか、わからない命。
始まりなく終りなく、、生きる。
そんなことが私の理想です。
ゴドーはそれに通じると思うのです。
2015/12/13 勅使川原三郎
[メールマガジンNo.262より]