佐東利穂子の公演を久しぶりに前から、劇場の2階のバルコニーから見た。通常より高い角度からは、別のダンスが展開しつるようだった。
それは新作「紫日記」である。
佐東利穂子が作品の冒頭、
最初に見る床にある身体の形から最終の闇に溶ける顔の表情へと、たとえ暗転が数回あるにもかかわらず、途切れない静かな流れと起伏が連なる。
佐東利穂子というダンサーが、踊る人からダンスを作り構成する、新たなダンスの有り方.、可能性を表現する舞踊の優れた作家になったと言っていいだろう。
ダンスが「ほとんど何も無い」ところから、身体を司る意思と精神によって確かな、揺るぎのない消えゆく形を動かす。
いうなれば神秘、科学が非科学化する、逆に非科学が科学になるのだ。
彼女はそんな言葉を使わないが、神秘が彼女から発せられる。
そして彼女はそれがなんであるか言わない。しかしわからないが明らかに感じる大切なものと言う。言いつづける。
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