公演後、私が佐東利穂子について考えたことを記す。
この作品に現れた佐東利穂子は、成長した姿と技量によって、
いわゆるダンサーを超えた次元の表現者になっているのを私は見た。
柔軟に解体された身体の内側には、半透明の純粋の水液が流動しているようだった。
激しい悲劇的うごめきは、微細の振動から発していて、それが生命を維持している。
作品のあらゆる場面で、佐東利穂子は生と死に対して、崇高な問いかけをやめなかった。
それはどんな詩人にも書けない身体の詩篇であった。
美しいダンスとしか言いようがない。
彼女は全てを見て聴いていて、何も見えず聴こえない。
全てが佐東利穂子であり、佐東利穂子ではない。
それが、佐東利穂子のダンスである。
勅使川原三郎
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