「創作」について

私は生きている限り作りつづけるでしょう。
ダンスの創作を始めてから40年近くになる今も、作品を作りたい気持ちは全く変わりません。
新作を作ることが生きることと一体なのです。他の生き方には興味がないのです。
呼吸をすることと同じです。痒いところをかくのと同じです。同じ気分です、
ただ作りたいから作る。それをつづけている。なぜなら生きているから。それだけのことです。
 
興味があることをもっと知りたいと思う時、作品を作ります。
「何」に興味があり、「どの様に」は次です。テーマや内容に深く入っていき、その中で生きたい。
作品は生きる場所です。内容の内側に入り込み、そこで生きる。作品を生きる。作品を生かす。
 
もちろん私のやり方でですが、自分の個性を表すためではない。
自分を表すために踊らないし、自分の表現のために作品は作りません。内容のために作るのです。
 
私は作品を多く作る方だと思います。特に今年は。
しかし今年はたくさん作品を作ると決めていたのではなく、数を重ねているというだけで、
結果として多くの作品を作っていました。
作品を作ることは楽しいです。作品作りの全てが楽しい。
 
毎回作る過程では、常に困難にさらされていますが、それほど面白いことはありません。
すぐできることなど面白くない、というか簡単に作った作品など一つもありません。
すべてが難しい仕事でした。それにあえて難しい課題を選ぶというのもあります。
逆を言えば、簡単な作品作りはないということです。簡単なテーマも技術もありません。
表現する喜びという言葉を私は使いません。作ることが嬉しくて楽しいのです。
 
そして作品を作ることとそれを踊ることは全く違うことです。
私は作品を作ることの方が、自分が踊ることよりも面白いです。
踊ることは好きですが、きっといつまでも踊るでしょう。
その先を言えば、踊ることによって作品ができて行くということが面白いのです。
 
作りたい作品は、、違う言い方をすると作られたい作品の要素たちは、
まるで順番待ちの様に長い列を作って待っています。
何もないところから何かが湧いて出てくる、そんな感覚になることがありますが、
実際は、何もないというより、まだ明確になっていない何か、予感や兆しの様に、
視覚にも物質的にも定かではない何かを微かに感じる時、すでに私は創作の準備に入っています。
 
一秒といってもいいくらいの瞬間に、ほんの小さな気にかかることがあるとします。
気にかけなければ忘れてしまう微かな何かが起きる様な気がするとします。
そして後で、そのことに時間をかけて考えてみる。あれは何だったのだろうと問いかける。
すると、あれはあの本の中にあったあの情景だったのだとか、忘れていた何かもしれない、
何とも言えない感覚が身に迫ってくるのは、あの音楽のあの部分だったのだ、など、
ミステリーを探り始める。その探るプロセスが楽しいのです。
 
音楽や書物、絵画や哲学思想、あらゆることの興味の対象を広げて探検が始まります。
深く茂ってまとまりのつかない鬱蒼としたジャングルや
宇宙の真っ只中の虚無や虚空の中と外を巡り巡って、手探りで宝物を探利当てる様な静かであるが、
興奮とスリリングな際どさを体験します、
創作期間が短い時でも必ず同じ冒険と探検を辿ります。
ギリギリまで「わかる、わからない」や「気づく。気づかない」「見える、見えない」
「聴こえる聴こえない」、そして「作れる、作れない」の境を探します。
 
抽象的ですが、作品を作ることはその様なことです。
創作はあらゆることを感じて考えることです。忘れることもそこには含まれます。
だから尚更、私は作品を作るのが楽しいのだと思います。
 
そして、ひと一言、作品を作るためには、自由を求める精神こそが基盤です。
「自由」というより、自由を求める、「求める」意思こそが、喜びに直結しているのですから。
 
勅使川原三郎

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