Works / 活動紹介

ガラスノ牙

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振付/照明/美術:勅使川原三郎

衣装/選曲:勅使川原三郎、宮田佳

出演:勅使川原三郎、佐東利穂子、川村美恵、鰐川枝里、加見理一、高木花文、ジイフ
照明技術:セルジオ・ペッサーニャ
音響技術:ニール・グリフィス
舞台監督:柴崎 大
初演:2006年12月15日 新国立劇場

主催:新国立劇場

上演時間:70分
ガラスの破片がつくる無数の光の反射は時間の破片。

ぶつかりあい、躊躇し、矛盾が増幅する身体。

始めは身体しかなく、次に自分と身体が重なり、そして身体が自分から離れる。
得体の知れないモノが存在する。

取り留めのないものに向かって手放しになって放り出されて存在を危うくしてしまうモノ、
放り出されて無抵抗のままにするモノ。

切羽詰まった精神が身体を追い込む時、知らぬモノ同士が出会う。

見知らぬ土地に現れる生命。

時間を粉砕したガラスと意味を超えた溶け続ける身体。

- 勅使川原三郎
この作品に寄せて
愛情と憎悪の感情は同時に隣接している
その相反する力が同時存在するのは原理であると思われる
物が動く、身体が動く、心が動くのにも
相反する力による統合されえなかった物が見えてくる
感じられなかったモノを感じ始める
考えが及ばなかった事を考えたくなる
そこから再び統合されえないコトを見つける
ギャラリー
レビュー(抜粋)
ル・フィガロ紙 2008年2月16−17日  マリオン・テボー氏
これは抽象的な、視覚的にとても美しい作品である。どこをとっても美意識が行き届いている。勅使川原は音楽、美術、そしてダンスのすべてでもって一つの、独自のものを作り上げ、我々の精神の中へとある瞬間を刻む。例えばガラスの上で両足で飛び跳ねながらガラスの粉塵をまき上げる場面などもそうである。
速度、流動性、そして究極の厳粛さ。全ての動作に圧倒的な力がある。ここではダンスは壊れた身体に呼応する。ダンサーがガラスの破片を口に加えるとき、あるいは勅使川原がガラスの山の上に横たわるとき。ダンサーは舞台上を矢のように通り抜け、次の瞬間にはガラスの絨毯のそばにかがみ込んで破片を手でなでる。どの瞬間もやさしさと残酷さ、囁きと叫び、柔軟性と緊張が持続的に、そして詩的瞬間として交互の立ちのぼる。
 この暴力性から繊細さへの変容、この常に移ろいゆく環境が強烈なインパクトをつくり、カンパニーの妙技に目を見張る観客を魅了する。
朝日新聞 2006年12月25日 石井達郎氏
光と闇の中、素材感と身体が交錯
勅使川原作品の魅力は、身体のあり方ばかりでなく、それを含む空間の暗がりにまでパフォーマンスの力が息づいていることである。
。。。勅使川原と佐東利穂子のデュオが鮮明な印象を残す。とくに2人が舞台奥のガラスの上でオフバランスに静止する瞬間は、透明で無機質な破片と命ある身体の対比が限りなく美しい。
。。。ガラスの破片は歩行を困難にはするが、タイトルにある「牙」とは裏腹に、ダンサーの体そのものに拮抗しているようには見えない。むしろ、乱反射する細切れの光の中に、身体を受け入れているかのようだ。異物感と受容感。このアンビバレンス(両面価値)のせいで、なにげない動きや意味のとれないささやき声が水際立ってくる。ありきたりの物語や情感をいっさい介在させない舞台であるからこそ、控えめでありながら真の緊張感に満ちた時空が持続した。
ダンスマガジン 2007年3月号   岡見さえ氏
絶え間ない反転
だがそれ以上に、さまざまな矛盾を内包するこの物質ーー硬くて脆く、光を透過し反射し、鉱物であり熱い液体でもあったガラスーーは、私たちの身体と世界に関する感覚を変容させる契機としてある。たとえば後半、ガラスの海の上で展開する勅使川原と佐東利穂子のデュオ。ガラスが砕け、軋む音と弾む息遣いがマイクで増幅され、無色無音の空間を満たしていくにつれ、危険を案じて彼らを注視する観客の神経は高ぶっていく。動作の瞬間ごと多様な形に砕けるガラスに反応したダンサーの動きはこのうえなく繊細であり、まるで空気の重さや湿度、感触を確かめるような彼らの動きは、見えないはずの空気の存在を観客に伝えていく。身体が空気を押し、空気が身体を押し返す。呼吸のように当然日常では注意することもない自然の法則が、観客の意識に突如顕在化する。なおも踏み出される踊り手の足の強さはガラスの脆さを教え、同時にガラスの鋭さは身体の脆さを示し続ける。こうして見慣れたはずの世界は絶え間なく反転を繰り返す力の場として新たに現れ、疑うことなく存在していたはずの踊り手の身体は彼の不在の記号となる。断片としてあった時間が飴のように伸展し、瞬間は無限の広がりになる。それは陶然とするような経験だ。
。。。「もしも私が参加する革命があるとしたら、1000年以上かかるようなものかもしれない」と勅使川原は言う。この日観客が目撃したのはあらゆる限界を超えた新しいからだ、無限の時空の誕生であり、密やかな革命のはじまりなのである。