2019年5月25日

本日はアップデートダンスno.62「青い記録」の2日目です。
昨日の初日の舞台で私が感じたことを書きます。
以前から公演を実際に行うことにより、作品がどういうものであったのかが初めてわかることがあります。公演から学ぶ。適切な準備をしていても作品自体がまだ生まれていない時点で、私が求めることを全て自覚しているわけではありません。予感していることはまだ明らかになっていない何かで、自覚と無意識の微かな領域(稲垣足穂でいうなら「薄板界」)で希求する内側に潜む何か、「ある核心」。私は観客の皆さんと同時に公演でそれを実感しました。
記録ということから私はあることを常々重要にしていたのだということに気がついたのです。恒例の公演直後のトークの時に期せずして自分の口から出た言葉に気づかされました。言おうと思っていなかった言葉、それは隙間、あるいは間合いともいえること。記憶ではなく記録ということにこだわった理由がそこにあった。記憶をあやふやなものといい、随時実録されつづける身体的記録には、それを的確な流れにする為の「隙間」が機能していたことを実感した。今ここで言葉で描写したことが実際に舞台で意識と自動性を活用して身体が構成していた。その働きによって様々な新たな出会いを身体内で起こしているということが分かったのです。
身体の動きの連鎖に「抽象的」と名付けることがあります。しかしそれは抽象ではなく連続によって生み出される具体的な質感の流れと言えます。日常に使われない時間感覚、つまり無時間的質感が連鎖して生み出す流れと展開です。(この辺でベルクソンを持ち出す物知りがおられるかもしれませんが、違うと思います)
これら私の思考が発する言葉は複雑で面倒に響きますが、実際は感覚して生み出している動きの連鎖の記録なのです。
もしまとめるなら、我々の動きは記録されることによって作られる動きのオーバーラップ、連鎖の展開なのです。それは感情とともに表されることもありますし、日常的な嘘ではない別の作りごとと混ざり合って混濁し濾過されながら生きている生命体の動きなのです。まるで水中に生息するクラゲやプランクトンや藻のように水と一体となって時間の尺度のない生を生きていると言えるでしょう。私や佐東利穂子の表現はそのような身体性とともに有ると実感しています。
長くなりましたが、時々はこのような創作の裏側を表に出すこともよいかと考えて書きました。
読んでくださりどうもありがとうございました。
2日目以降も大切なものを継続しながら日々アップデートしていきたいと思います。
どうぞご来場くださいますようお願いします。
                           勅使川原三郎
                        [メールマガジンNo.1359より]

 
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